名称(商号) | 特例有限会社松山セレモニー |
法人役員 | |
↑マークをクイックすると、ホームページに移動します。 | ○松山セレモニー本社・事務オフィス 【所在地】 ☎089-968-3995(代表) 【事業内容】 葬儀・家族葬・直葬(火葬) 寝台車・霊柩車搬送 仏壇、お位牌、神仏具 墓地、永代供養塔の受付、管理、墓地造成 各種墓石、設計、加工、施工、リフォーム お墓参代行サービス・納骨サービス・クリーニング 記念碑、モニュメント、文字彫刻、建築石材 松山市市営墓地 終活コンサルタント 等 松山市斎場(火葬場)登録業者ほか。 ○松山中央霊園(宗旨、宗派は問いません) 【所在地】愛媛県松山市太山寺町乙164番 松山中央霊園管理事務所 【お問い合わせ】☎089-968-3995 |
中川美千雄
あれからずいぶんと大きくなりました🦚
近年少子高齢化社会になり、お墓の継承や管理が難しくなっています。跡継ぎがいなく放置されたお墓は草ぼうぼうになったり、中には傷んだりして荒れ果てて、近隣のお墓の方やお寺様など管理者にもご迷惑をお掛けすることになっています。こちらは日本全国的にも社会問題化しています。
当社にもそうなる前にと、墓じまいの依頼は多く、事前に見積もりをお出ししてお客様が見積もりに納得いただいたら仕事(解体、撤去、処分)に取り掛かっています。
※一般的な墓地は、使用しなくなったら墓石を撤去して更地にして返還してくださいという所が多い。
【改葬許可証・墓地埋葬法】
お墓の中にいれているお骨を、その場所以外に移動する場合に、改葬許可証という書類が必要になります。書式は役場で分かります。内容はお位牌や過去帳を見たら埋めれる項目が多く、どうしてもわからない場合は不詳でも通ります(役場に相談してください)役場から許可が出たら、納骨堂や別の墓地の管理者に納骨時に改葬許可証を渡します。
墓地埋葬法という法律があって、人骨に対しては法律が厳しくなっています。余談ですが、遺体もそうで、いくら身内だからといってどこにでも埋葬したらいけません。
松山メモリアルヒルズ墓苑・龍穏寺境内墓地・宗教法人龍穏寺 松山市御幸1丁目541番地
ロシア兵墓地隣接 全825区画 都市型霊園の誕生です。
松山城、松山中央公園、三津浜と瀬戸内海の大パノラマ眺望この地に墓石を建立出来ます。
駐車場・トイレ・全区画バリアフリー・自動開閉ゲート・監視カメラ・夜間照明・雨天通路排水等、
完備しています。
(墓地永代使用料一覧) 宗派問わず @=1㎡ 2021.12.8現在
1、 30万円 (1.05×1.05=1.10㎡)273,000円
2、 80万円 (1.50×1.80=2.70㎡)296,000円
3、110万円 (1.80×2.10=3.78㎡)291,000円
4、桜園区Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ
・30万円 (0.84×1.04=0.87㎡)344,000円
・+納骨堂20万円(再利用の場合は値引きあり)
5、桜園特別区
・20万円 (0.70×0.85=0.60㎡)333,000円
6、桜園西区(10基分)
・40万円 (0.90×1.75=1.58㎡)250,000円
・+納骨堂20万円(再利用の場合は値引きあり)
ただいま墓地受付中です。
お問い合わせは☎089-968-3995有限会社松山セレモニー石材部
墓地を散策しませんか・・・温故知新□龍穏寺
~冬に咲く桜を観る~
十六日桜
・陰暦の正月十六日、現在の二月二十日頃に開花する桜である。
孝子桜(古事因縁集、感孝桜誌)十六日の初桜(伊予桜)とも言う。
正岡子規 「うそのような十六日桜咲きにけり」
種田山頭火「咲いて一輪ほんに一輪」
小林一茶 「又たくひ世は梅さかりの此の桜」
松尾芭蕉 「人の気を花に載せてゆく桜かな」(伊予古蹟誌に掲載)
・明治二十八年一月 明治天皇に十六日桜を献納する。明治天皇十六日桜御□覧(宮内書記官侍従 桜井能監)
・明治四十二年三月二十八日 伊藤博文は正服帯勲にて龍穏寺に来山する。(韓国統監伊藤老公閣下随従 帝国陸軍少尉 村田惇)
伊藤家の先祖である河野家と越智家の墓参と十六日桜の賞監である。
そして同年十月二十六日ハルビン駅にて六十九年の生涯を閉じる。
著名人の墓を散策する
一、 伊藤博文先祖の越智家の墓
伊藤博文は幼少の頃は母方「越智釜太郎」を号し、その後伊藤家の養子になる。
二、 遠山家の墓
明智遠山氏は、関ケ原の合戦で石田三成を破った功績によって伊予の所領を与えられ松山 藩の重臣になる。これが西方の遠山家である。「遠山の金さん」こと遠山左衛門景元は東方の遠山家である。現在も数個の墓石は、東方の愛知県を向いている。
三、 水野御三家の墓
水野家は伊予松山藩の家老である。水野忠政の娘は、徳川家康の生母である。
生母が再婚した久松家の子は、松平姓をもらって伊予松山藩主になる。それに随従した重臣が水野御三家である。お姫様や奥方の墓が多く、その墓石の頭部は花嫁角隠しの型である。
四、 日下伯巌の墓
江戸幕府の昌平坂学問所を卒業し、松山藩校の明教館の初代教授として藩士の子弟教育に従事した。詩文に秀で書道も巧みであった。
五、 河内周五郎の墓
農用ため池の造成の発起人である。明治十一年一月から翌年五月に完成した「松田池」である。現在は埋め立てられて松山大学のキャンバスになる。
六、 伊予河野家の卒塔婆(石碑)
延宝七年(1679年)河野家五十七代河野弥太郎通政が建立する。伊予河野家の滅亡から一世紀後である。
【文章】 天臨山 龍穏寺 第三十八世 中野裕道現住職 (掲載承認済み)