沖道ヨガ体験記~道を求めて(14)佐藤松義
沖ヨガ断食道場入所時の場面をもう少し詳しく思い出してみよう。
1977年の晩秋の冬が近づいた頃、思い切って鎌倉総合病院から抜け出して入門の手続きをしようと箱根の山中の沖ヨガ修道場に併設された沖ヨガ式断食道場に行ってみた。
ちょうど昼頃に着き、玄関先で「こんにちは!お願いします」あれ、返事がない。再度大きな声で「たのもう!」と言ってみたが誰もいない。おかしいなと思いつつ奥の側道を進んでみると何か騒がしい。
恐る恐る覗いてみるとそこに仁王立ちになって竹刀を持った紺のジャージ姿を着た初老の男が大きな声で怒鳴りなが聞こえた。「そこから落ちた奴は飯抜きだ!」と天井の鉄柱にしがみ付いて渡っている受講生にわめいている異様な光景が目に飛び込んだ。
な・な・何とさらに男性が全員上半身裸である。その背中には黒い丸い斑点があるではないか。これには驚いた。ここは断食道場と思って来てみたが、何かの集団感染者が集まっている施設のようである。沖先生の著書は学生時代から愛読していたのでそのイメージとは程遠いものだった。
私の思い描いていた憧れの断食道場のイメージは、静かな森に囲まれたお寺のような建物でその断食体験者は厳かに生活していることを期待していたのだった。
まるっきりの期待外れであった。あの恐ろしい風景を見てしまったら、病気の私には耐えれそうになく入門を諦めてしまった。すごい顔をしたあの指導者に見つからないようにすごすごと後退りしならすっ飛んで病院に戻って来てしまった。
後で分かるのだが、丹田力は生命力のことだが、そこを鍛えるには全身全霊で行う最高の肉体修行の一環で、沖ヨガ道場ならでの丹田力強化法の時間に来てしまったのだ。また、背中の丸い斑点は東洋医学の吸圧カッピングという体の皮膚の深い層に溜まった汚れた血を真空にさせて血をきれいにするのである。
その当時は、知る由もない私は、恐ろしいと思った断食道場と手術を天秤にかけて手術を選んでしまったのだ。断食を諦めとても落ち込んでしまったが、仕方がないと自分に言い聞かせながら一瞬の望みが消えたのだった。
それから、内科から外科の病棟に移され、胃と十二支潰瘍の全摘出と食道と腸を結合するビルロートII法とか言われた、詳しい大手術の段取りの説明を受けた。最後に医師から手術同意書のサインを勧められそれにサインをしてしまった。
その当時は手術に失敗はつきものだが万が一死んでも損害賠償しない書類だろうと思った。そして、静かに病室のベットで反省しながら手術の日を待っていた。
だがどうも腑に落ちない何かモヤモヤが頭の中を駆け巡っていた。それは、同室の男の人が私と同じような手術をして又、再入院して来たのだ。確かに医者が言われた通り同じ病名ではなく別の病名でまた手術を待っているのだ。
そのお隣さんの患者も違った病気で再々入院して来ている。これはどういうわけなのだろうかとまた疑問がよぎった。
ひょっとしたら手術してもその部分は治っているように見えるのだがまた、病気が再発したり別の病気で入院して来ているということは、手術では根本的に治らないと思い始めた。決定的づけることは、病室にお菓子や飴を食べているではないか。
病院食にも疑問が残る。病院で出される食事は確かに美味しいのだが、果たして体に良い食事法とは思えなかった。本当の意味の病気が良くなる自然食ではないからだ。カロリーや栄養的には正しいかもしれないが白米と魚や肉を使ったバランスの取れた料理には違いないが、モヤモヤ感が残り疑心暗鬼の心が出てきた。
このまま入院して投薬と手術をしてもいつかは病院で殺されてしまうではなかろうかという脅迫感が生まれてきた。
そのように考え進んでいくと、いてもたってもいられず、とうとう耐えきれなくなり主治医に相談した。「どうしても断食がやりたくなったので手術撤回書の許可をください」と。当然、無視されてその答えは冷静に「手術が終わってからにしなさい」とのことだった。
そこで、親にも断食の相談をしたが反対された。父親は絶対に許さないとのことだった。会社にも相談したが「お前は馬鹿か!」ここでも反対され、とうとう追い詰められた。
自分の命に深く向き合い考えた挙句、「人生は一度きりの尊い人生なのだから悔いのないように自分の生命に賭けてみよう」と心の声が囁いた。それでも断食で治らず仮に死んでも悔いのない生き方をしようと決心がついた。
唯一、賛成してくれたのは母親であった。「松ちゃんの好きな生き方をしなさい。母ちゃんはお前を信じているよ」その後押しされた声きいて希望が持てた。
そのXデイは手術の三日前だった。決心するとすぐに行動に出た。全財産を車に積んで病院を抜け出したのだった。背水の陣を敷く覚悟で、再度、断食道場に決心していった。恐ろしい人とは、あの沖正弘先生だとは知らなかったのだが。
それは、翌年の正月明けの1月29日だった記憶がある。時に23歳だった。
また来てしまった。しかし、立派な鉄筋の建物の玄関らしいとこから入っていも誰もいない。次に奥に入ると正面玄関があったので大声で「たのもう、たのもう」と何度声を出してもシーンと静まり返っている。受付にも玄関先でも誰もいないようで諦めかけたが、前回に来たときに奥の道場で何やらドタバタとやっていたのを思い出してそこに行ってみると受付らしい場所が作られていた。「誰かいませんか~。お・ね・が・しまーーーす!」と叫ぶとなんと痩せた中年らしい男性が出てきた。
安堵の気持ちでその人に藁を掴む思いで自分の病気を事細かく説明したら、「大丈ばい。すぐに良うなるばい。心配せんで入所せんねえ。」と何やら聞き取れない方言で答えてくれた。はっきりと分からなかったがそれは、長崎弁であった。
長崎では最初の頃のヨガの普及に尽力された奥野義雄という改造班の先生であった。手術をしなくても治る。大勢の人が治っているとのこと。私は、地獄に仏とはこのことだなと思った。それを聞けただけでも嬉しかった。奥野先生は最後まで私にとってとても大切な人であった。その御恩は一生持ち続けている。
そして、受付担当者が来て、言われるまま入所手続きを行なった。まず、全財産を出して、これで何日間滞在で来ますか?と問うと一ヶ月だと言う。次に、ここでの滞在中における全ての責任は自分にある。訴えてはいけないなど書かれた誓約書にサインをし、会員手続きと病歴や家族構成や食癖などのレポートを提出したら、今度は今までの自己反省文を十枚を目安に書かされた。沖先生の著書数冊を強制的に購入されて最初からハードルが高いところに来てしまったと思った。
そうこうして、部屋に通されるとあの騒がしかった受講生達が誰もいないのである。私1人であった。どうしたのだろうと訳が分からず、夕食を食べ終わった頃、1人のごっつい顔をした男性が入ってきた。サウナ風呂で一緒になるとこれまた、ズズー弁で話しかけて来たのだ。
今度は、福島弁であった。「佐藤君、あんたの病気は簡単さ治るよ。安心していいよ。こごさいる修行生は、沖先生ど御前崎の静波の道場さ移動してっから誰も居ねえのだよ。明日、帰って来っからまだ、本部道場が賑やがになるさ。えへへ」とのこと。ここはどういう所だ。今度も聴いた事のない言葉使いと方便名のだ。
この方が、あの有名な赤羽先生の弟子である福島県会津若松の「温古堂鍼灸院」菊池高夫先生であったのだ。
翌日、2人でジョギングで上り坂が続く丘に登った。雪が降っていたが雪道を駆け上がると目の前にお大きな雪の凛々しい姿をした富士山が眼前に迫った。
そして1日が終わりかけた頃、ドヤドヤと大勢の受講生が戻ってきた。一瞬にして道場が突然、緊張感が漂ってきた。スタッフらしい人がこれから質疑応答をするから二階に整列するようにとのこと。
これから、沖先生に挨拶をされていない新人は前列に並ぶようにとのことで、数人の新人がいたので、それに従った。スタッフからさらに氏名、年齢、出身地、職業、ここに入所した目的を簡単に自己紹介しなさいとのこと。昨日の雰囲気と一転して道場が生き生きとしている。私はドキドキしながら口の中でもごもごと五つの言葉を整理していた。
とうとう待望のその時が来たのだった。
沖先生と初めての対面である。突然、羽織袴で舞台に登場してきた。沖先生が椅子に座ると「合掌!」と研修生が叫ぶ。
すると全員が一斉に合掌し、沖先生のゲキが飛ぶ。「はーい!そこの新人から自己紹介せよ!もっと大きな声で!おい!こら!わしの目を見て話せ!」
おおお強烈なスタートだった。
最高に緊張しながら新人は次から次と自己紹介され私の番になった。
「職業は日本料理の板前修行中です」と答えたら、
すかさず沖先生はそうか、
「今日からわしの食事を作れ」と返された。
私は内心「ええええ!包丁を持つと血ヘドを吐くからそれを治しに断食体験しに来たのに、それを今日から沖先生の料理を作れと言われても‥。それは出来ない相談だと思った。大変なところに来てしまったようだ。‥続く

