以下の御文章は、軍神杉本五郎中佐遺著『大義』の中の一文です。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


「 天皇は
天照大御神と同一身にましまし、
宇宙最高の唯一神、
宇宙統治の最高神。
国憲・国法・宗教・道徳・学問・芸術乃至凡百の諸道悉皆
天皇に帰一せしむるための方便門なり。即ち
天皇は絶対にましまし、
自己は無なりの自覚に到らしむるもの、
諸道諸学の最大使命なり。
無なるが故に、宇宙悉く
天皇の顕現にして、
大にしては上三十三天、
下奈落の極底を貫き、
横に尽十方に亘る姿となり、
小にしては、森羅万象 
天皇の御姿ならざるはなく、
垣根に集く虫の音も、そよと吹く春の小風も皆
天皇の顕現ならざるなし。
釈迦を信じ、「キリスト」を仰ぎ、
孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。
宇宙一神、最高の真理具現者
天皇を仰信せよ。万古 
天皇を仰げ。」


杉本五郎中佐は支那事変で戦死され、

その直後の昭和13年に刊行されたこの本は

「天皇信仰の極北」ともいわれ、
文部省が頒布した『國體の本義』と違い、

日本国民の多くが
自らのお金で買い求めた一書でした。
この中にある
「垣根に集(すだ)く虫の音も、そよと吹く春の小風も皆
天皇の顕現ならざるなし。」という文章を読んだとき、
私は曹洞宗元管長で、

大本山永平寺75代管主の山田霊林禅師の
次の話を思い出しました。


黙祷といへば、支那事変第2年の4月、

靖国神社臨時大祭の第2日の

陛下の御姿、靖国神社の社殿を

出でたまうたときの御姿、

これを拝想して、誠恐誠惶、叩頭稽首、

これを久しうする人が、日本国中の

津々浦々に満ち渉つてゐる。

臨時大祭のあの日、

社殿に出でました御姿を拝して、

或はその御写真を拝して、

感泣しなかつた人があるであらうか。

陛下は社殿の御奥深く英霊の前に

黙祷あらせたまうて、

切にその忠誠を犒(ねぎ)らはせたまうた、

その叡慮の程があの御姿にありあと拝せられた。

仰いで草木も泣き伏して大地もわなないた。

陛下が嘗て学習院の初等科を了へさせられて、

東宮御学問所にあらせられた日であつたといふ。

学友の方々と新宿御苑を御散歩になつたとき、

蚯蚓(みみず)が玉砂利の上に這ひ出して

日光に遇ひ、困憊してゐた。

学友の方々はそれを顧ようとも致されず

通り過ぎられたのに、

陛下は御手づから蚯蚓を木蔭の湿地に

移しておやりになつたと承つてゐる。

さういふ御慈み深い御心を持たせたまふ

陛下が、英霊を社殿にまつらせたまふ御心が

いかがあらせられるであらうかは、

拝想するだに恐懼感激の極みである。


陛下はまた白鳥庫吉博士が東宮御学問所に於て

歴史の御進講中、御学友の方々に向つて

「仁徳天皇の朝に民が何故に疲弊してゐたのですか」

とおたずねしたのに対し、学友の方々が、

飢饉であつたためだらう、といふやうに

答へてゐられたのを、黙々として聞いてゐらせられたが、

学友の方々が答へ終るを待ち受けて、

「いやそれは三韓征伐のためである、三韓征伐が、

国力を挙げつくしての大事変であつたからである」

と仰せられた、そして戦争の惨禍を

いたく憂へさせたまうたと承はつている。

かくの如き仁慈と明察とを抱かせたまふ

陛下が、今次の聖戦を開きたまうた、

これは実に、やむにやまれないものがあつたからであること、

申すまでもないことである。

東洋永遠の平和建設のため、

世紀の偉業達成のため、

やむにやまれず、異常なる御決意によつて

開かせたまうたのである。

忠勇義烈の将士はその誉を悦んで

国に殉じてゐるのである、

陛下がその英霊に黙祷あらせたまふ、

その叡慮を拝想し奉りては泣かないで

ゐられる国民は日本に一人もゐない。

陛下の御黙祷の御姿を仰ぎ、

感激の涙に濡れて行ふ国民の黙祷は、

世界何処の国に於ても見出されぬ

実に意義深きものである。