日本国憲法が、占領軍によって強制されたものである

事実は、今さら論証する必要のないことです。

ただ、マッカーサーが、日本に対して強圧を加えたのは

確かに事実ですが、

好き勝手に草案を作ったのではありません。

多くの国民からの天皇の嘆願署名もあり、

占領下とはいえ、日本国民の反抗を誘発することは

出来る限り避けたかったのは確かです。

そのために、押し付けた「日本国憲法」の中に

妥協の産物としてあるのが、「象徴天皇」です。


戦後の憲法史を考えたとき、

伝統保守派の政治戦略は

愚直で拙劣だった感は否めません。


伝統保守派を思想的に指導した

神社新報社の葦津珍彦先生は、

憲法改正が難しい状況の中で

憲法の枠組みの中でいかにすれば、

皇室をお護りできるかを考えられました。


そこで葦津先生が考えられたのは

次の5つの問題でした。

①大日本帝国憲法と日本国憲法の法的連続性の問題。

②伊勢神宮の法的地位の問題。

③祖宗の神器に関する古儀復古の問題。

④元号の問題。

⑤大嘗祭の問題。


①については、葦津珍彦先生は昭和38年頃から

建国記念の日制定運動を始められます。

「建国記念の日」を定めることは、

日本という国家が、中途において

断絶したのではなく、

神武天皇以来の「天皇を国の象徴とする国家」

としての連続性を保っているということを

法的に公認するということになるのです。

日本国憲法では「万世一系け」の語を嫌って、

「皇位は世襲」というあいまいな表現にしました。

しかし「建国記念の日」を法定することによって

その世襲とは神武天皇以来の万世一系の

皇位であることが明示されたとも言い得るからです。


②~⑤については

帝国憲法時代には、憲法と対等の権威を有する

皇室典範があって、そこには、

天皇が、皇位を継承なさるときには必ず

「祖宗の神器を受け」

即位にさいしては

「大嘗祭」を執行さるべきことが明記され、

天皇が皇祖神に対する祭り主たるべきことが

明示されていました。

それが日本国憲法下では、

即位の礼を行うというだけで、

祖宗の神器とか、大嘗祭の語は

全く書かれておらず、

一世一元の元号を建てることも

書かれていません。

それを法文削除をもって古来の法の否定と解するか

明文から除いただけで、慣習法として生きていると

解するべきかは、専門家でも判断が分かれました。


そこで②③の問題については

明治の皇室典範に明記された

「祖宗の神器を承く」との条文は、

本来は皇祖神の祭り主たる地位の継承を

意味する皇室の大法なのですが、

その法文の存続が許されなかったため、

皇室経済法の第7条に

「皇位とともに伝わるべき由緒あるものは、

皇位とともに皇嗣が、これを受ける」

という条文をつくり、

「祖宗の神器」は、この「由緒あるもの」の第一である

との解釈をして、ともかくも神器伝承の法が残りました。

*祭祀の法たるべきものが、遺産相続の経済法の形で

 ぎりぎりのところで残っているのです。

また、伊勢神宮の神鏡については

「伊勢神宮はすでに私的宗教法人になったから、

その御鏡も私法人の私物と解すべきであるという

解釈説が少なくありませんでした。

しかし、関係者による政府や議会との長期の交渉の結果、

「伊勢の御鏡、熱田の御剣は、私法人に帰するものではなく

祖宗の神器として皇位とともにあるべきもの」との

公権解釈を確認させるにいたりました。

また、祖宗の神器としての剣璽を、

天皇の行幸にさいして常に捧持されることは

有史以来の皇室の大切な伝統でした。

それが占領中は、皇室史上はじめて

中絶してしまい、その後も約28年

中絶したままになっていた。

しかし、日本の由緒ある伝統の復活を望む

無名の若者の声が全国各地であがり、

「皇位は神器とともに在り」との精神復活を

要望し、上奏する運動を続け、

昭和49年の晩秋、

天皇陛下は伊勢神宮に参拝なさるとき、

この古儀を復古して、剣璽を捧持して、

伊勢へ赴かれたのでした。


昭和30年代の終わりから40年代にかけては、
神社庁と生長の家(昭和60年に日本を守る国民会議脱退)を中心
としてこういった活動が展開されて来ました。

そして昭和天皇の御在位50年奉祝運動が、

全国的な盛り上がりを
見せる中
昭和51年10月28日、

当時の西村総理府総務長官は、
参議院内閣委員会で、

昭和以降の元号の取り扱いについて、
「なるべく早い時期に公式制度連絡調査会を開いて
元号の存続のための大綱をまとめ、

内閣告示によって(存続の)方向づけを行う。
いよいよ必要だというときには、

学識経験者などの意見も聞きなが
ら、
名称についての案をつくり、

内閣で検討し告示する」と述べ、
政府の元号制存続の方針を公式に表明しました。

元号法については、

「国民主権と君主元号制とは一致しない。
新憲法はその主義に反する法を無効と宣言している」

とする学者もいました。
しかし、その新憲法宣言を布告した公文書は、
明白に「昭和」年号を用いていて、

西暦表示はありませんでした。
つまり、新憲法下でも一世一元の制度を不文慣習法と
認めているということになるのですが、
当時の憲法解釈は時代の流れで

非日本的に変化していたのです。

そこで、天皇陛下御在位50年奉祝運動が

大成功した直後から、
皇室をお護りする第4の問題への取り組み、
元号法制化運動がすぐさまスタートしたのでした。


つづく