第80代高倉天皇は、

後白河天皇の第7皇子であり、

第81代安徳天皇、第82代後鳥羽天皇は

高倉天皇の皇子でありました。

高倉天皇は、後白河院と平氏の圧力に

悩まされ続けた天皇として、

後世に伝えられておりますが、

学問に秀で、風流を解し、容姿端麗で

その雅量は多くの廷臣から

慕われていたといわれています。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


高倉天皇が御幼少の頃に、楓の木を献上する者があり

この樹を愛賞し給いて、

藤原信成に監護を仰せ付け給いました。


ある日、信成が外出した留守中のこと、

庭園の掃除をする仕丁たちが仕事の隙に、

天皇御寵愛の樹とも知らずに、

その楓の枝を折って薪にしてしまい、

酒を煖めて飲んでいたところに

信成が帰ってきました。

その所業に驚いた信成は、

仕丁らを召捕り、御前に罷り出て、

監護を等閑にした罪を伏奏しました。

すると温厚仁慈に渡らせ給う

高倉天皇は

「唐詩に、林間酒を煖めて紅葉をたたふ

という句があるが、仕丁の身でこの風流を

解するとは感心なことである」と仰せられ、

仕丁たちには何らのお咎めもなく、

上機嫌であられたというのです。

藤原信成はこの雅量ある大御心に感泣して、

召捕った仕丁たちも放免にしたのです。


世の中には、僅かばかりのことでも

腹を立てて怒鳴りつけたりする

心の狭い人が多いものですが、

上御一人である大君の、

このような寛容なる大御心を思うとき、

我が身を大いに恥じて、心を養うよう

努めなければならないと思うのです。