松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


天皇・皇后両陛下が大阪に行幸啓されるときは

リーガロイヤルホテルにご宿泊になられます。

リーガロイヤルホテルは堂島川と土佐堀川に

はさまれた中之島にあり、

天皇皇后両陛下を府民が御奉迎申し上げるときは

大江橋から朝日新聞本社前、そして渡辺橋から

リーガロイヤルホテル前までを

日の丸の小旗を打ち振って盛大にお迎えします。

この辺りはオフィス街で、大阪市役所のほか、

会社もたくさんあるので、会社員も

仕事を中断してお迎えに出てきます。

私の会社もこの近くにあり、

渡辺橋の近くで御奉迎申し上げるのです。


実はこの渡辺橋というのは

楠公父子の時代にはもう少し東側の

大阪天満宮の南の大川の突き当たりに

架かっておりました。

楠木正成公も、楠木正行公もその昔、

敵軍を追い詰め、打ち破られた古戦場です。

『太平記』には、楠木正行公

渡辺橋から追い落とされた敵軍の兵たちを

川から救い上げ、傷の手当てをし、

衣服まで与えて国元へ返してやったという

話が載っております。


楠木正成公が湊川の合戦で弟の正季公と共に

七生報国を誓って自決されたのは

正行公がまだ11歳の時でした。

後醍醐天皇が足利尊氏から逃れ、

吉野に朝廷を建てられたときに、

正行公は楠木一族を率いて

真っ先に馳せ参じます。

しかし、それから3年後の8月

後醍醐天皇が崩御されると、

まだ僅か12歳であった義良親王

(後の後村上天皇)を正行公は盛り立てていきます。

北朝をたてて征夷大将軍になっていた

足利尊氏にとって、正行公

最も邪魔な存在となって行きます。

そして湊川の合戦から11年後の

正平2年(1347年)秋、足利尊氏は

楠木正行討伐を決意し、

細川顕氏を総大将に3千の兵に出陣を命じます。

ところが正行軍は僅か7百の軍勢で

細川軍に完勝します(藤井寺の合戦)。

すると尊氏はさらに兵を集め、

その年の冬には山名時氏、細川顕氏を大将に

5千ずつ1万の兵を差し向けます。

それに対する楠木軍は総勢2千。

正行公は山名軍を分散させ、

瓜生野に誘い出して挟撃します。

鍛えあげられた少数精鋭の楠木軍は

5倍の人数の討伐軍と互角の戦いを演じます。


こう着状態に陥って両軍が一旦兵を退いた後、

流れを変えたのは正成公と共に自決した

弟正季公の子・和田賢秀でした。

和田賢秀は僧兵一人を従えただけで

敵陣の前に進み出て

「われこそは楠木正成の弟正季が一子、

和田賢秀なり。われこそと思う者は進み出られよ」

と言って戦いを挑まれます。

数千の敵陣の前に進み出たたった二人の

武将に対して、敵兵が躊躇して動かずにいると

和田賢秀は「誰も出ぬのなら、こちらから行き申す」と

言って敵陣に斬り込んで行き、あっという間に

2~30人の敵兵を倒してしまいました。

これで一気に流れが変わると見た

正行公は「われに続け」と自らが飛び出し、

楠木軍は全軍が一気に攻め込みました。


山名軍の5千が敗走すると、

天王寺に陣をはっていた細川軍も

全軍退却命令を出しました。

それは、京都に帰るためには

必ず渡らなければならない渡辺橋

もし楠木軍に塞がれでもしたら

京都に逃げることができなくなり、

それは全滅を意味するからです。


しかし、渡辺橋には山名の敗残兵、

細川の全軍が一気に殺到したために

川に落ちて溺れるものが続出しました。

正行公は、渡辺橋の手前で全軍を止め、

敵兵が川に流されるのを見ておりましたが、

「戦の勝敗は既についた。溺れている敵兵は助け、

ケガをしている者は手当てせよ」と命令します。

真冬の厳しい寒さの中、川で溺れ死ぬところだった

何百という敵兵が楠木軍の手で助けられました。

河原では敵兵が「なぜわれらを助けて下さるのか」

と尋ねる者もいましたが、

楠木軍の兵は「お館さまの命じゃ」と言うのみです。

助けられた兵たちの中には正行公の所に来て

正行殿の大将としての並外れたご器量、

われら心から感じ入りました。

正行殿にお仕えしとうござる」と

申し出た者もいました。


それに対して正行公

「今は京へ帰られよ。先ずは帰って

おぬしたちを待つ家の者たちに

無事な姿を見せてやるがよい」と

言われたそうです。

大楠公・楠木正成公の偉大さは

多くの人々に語り継がれていますが、

小楠公・楠木正行公の大将としての器量の大きさは

父・正成公に勝るとも劣らない立派なものでした。