今朝、NHKのテレビ番組で津波に関する特集を観ていると

『稲むらの火』が紙芝居形式で紹介されていました。

実は数年前、家内はこの『稲むらの火』の物語の

普及活動をしていました。

戦前の日本においては教科書に載っていましたが、

戦後の日本では戦前の教育が全否定されてしまい、

長い間、日の目を見ませんでしたが、

普及活動と東日本大震災の影響もあり

昨年度から教科書で使用されることになりました。

小学生には難しい表現が使われていますが

日本人教育としては大いに推奨されるべき話です。


先ずは全文をご紹介します。


「これはただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出てきた。

今の地震は別に烈(はげ)しいという程のものではなかった。

しかし長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、

老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。

五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。

村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、

さっきの地震には一向気がつかないもののようである。

村から海へ移した五兵衛の目は、

忽(たちま)ちそこに吸い付けられてしまった。

風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、

見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。

このままにしておいたら四百の命が、

村もろ共一のみにやられてしまう。

もう一刻も猶予(ゆうよ)はできない。
「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、

大きな松明(たいまつ)を以て飛び出してきた。

そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、

いきなりその稲むらの一つに火を移した。

風にあふられて、火の手がぱっと上がった。

一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。

こうして自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、

松明を捨てた。

まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、

沖の方を眺めていた。

日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。

稲むらの火は天をこがした。

山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、

急いで山手へかけ出した。

続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
高台から見下ろしている五兵衛の目には、

それが蟻(あり)の歩みのように、もどかしく思われた。

やっと20人ほどの若者がかけ上って来た。

彼らはすぐ火を消しにかかろうとする。

五兵衛は大声に言った。
「うっちゃっておけ。-大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」
村中の人は追々集まってきた。

五兵衛は、後から後から上ってくる老幼男女を一人一人数えた。

集まって来た人々は、

燃えている稲むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。
その時、五兵衛は力一杯の声で叫んだ。
「見ろ。やって来たぞ。」

たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。

遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。

その線は見る見る太くなった。広くなった。

非常な早さで押し寄せて来た。
「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。

海水が絶壁(ぜっぺき)のように目の前に迫ったと思うと、

山がのしかかってきたような重さと、

百雷の一時に落ちたようなとどろきとを以て、陸にぶつかった。

人々は我を忘れて後ろへ飛びのいた。

雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何も見えなかった。
人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。

2度3度、村の上を海は進み又退いた。
高台では、しばらく何の話し声もなかった。

一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、

ただあきれて見下ろしていた。

稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、

夕やみに包まれたあたりを明るくした。

始めて我にかえった村人は、

此の火によって救われたのだと気がつくと、

無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。



この『稲むらの火(いなむらのひ)』は、

安政元年(1854年)の安政南海地震津波に際して

紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)で起きた

故事をもとにした物語です。

地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、

人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いています。

小泉八雲の英語による作品を中井常蔵が翻訳・再話し、

かつて国定国語教科書に掲載されていました。

主人公の五兵衛は実在の人物。

モデルは紀州、総州(千葉銚子)、江戸で代々手広く

醤油製造業を営む濱口家(ヤマサ醤油)七代目当主の

濱口儀兵衛(梧陵)。
儀兵衛は佐久間象山に学び、勝海舟などとも親交があり、

私財で「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という

学校を創立するなど、社会事業の発展に努めた篤志家で、

地震発生当時34歳の働き盛りで、自らも九死に一生を得た後、

直ちに救済、復興対策(橋梁、堤防構築、失業対策等)に奔走。
 

翌年から4年の歳月、延べ人員56,736人、

銀94貫の私財を費やして全長600m、幅20m、高さ5mの

大防波堤「広村堤防」を築きました。

これは津波で職を失った人を助けるとともに、

昭和21年に発生した昭和の南海地震津波からも

住民を守り抜くことになるのでした。
その広村堤防は今でも広川町に史跡として残され、

毎年11月に「津浪祭」が「感恩碑」の前で開催され

儀兵衛の偉業を称えています。

後年濱口梧陵を名乗り、新政府では大参事、

初代和歌山県会議長、初代駅逓頭(郵政大臣に相当)などの

要職に就き、近代日本の発展に貢献し多くの足跡を残しました。

世界一周の旅行中、ニューヨークで客死(66歳)したのですが、、

今でも幕末の英傑(義人)として広く愛され、畏敬されているのです。




松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


主人公・五兵衛のモデル・濱口儀兵衛(梧陵)。


7年前の1月、インド洋大津波をうけて

ジャカルタで開催された東南アジア諸国連合緊急首脳会議で

シンガポールのリー・シェンロン首相が

当時の小泉純一郎首相に

「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、

子供の時から津波対策を教えているというが、事実か?」と尋ねました。

しかし、小泉首相は戦後世代なのでこの話を知りませんでした。

東京の文部科学省に照会しても、誰も知らなかったということです。

それで、私の家内は「これは後世に伝えるべき話だ」ということで

紙芝居を作ったりして、子供たちに教えていたのです。

(家内は保母さんでした・笑)