明日6月23日は大東亜戦争における

唯一の国内戦となった沖縄戦の終結の日である。

天皇陛下は「日本には忘れてはならない日が四つある」

と語られたが、それは

沖縄戦終結の日(6月23日)、

広島の原爆記念日(8月6日)、

長崎の原爆記念日(8月9日)、

終戦記念日(8月15日)である。

天皇陛下は、この四つの日に同等の思いを

寄せられているのであるが、

「沖縄戦終結の日」の取り上げられ方は

他の3つの日よりも少ないように感じる。


大東亜戦争は開戦以来、国外で戦われてきたが、

戦争が長引くにつれて戦局は悪化し、

昭和20年には本土決戦を現実のものとして

考えねばならない事態に追い込まれた。

大本営は決号作戦、天号作戦という二つの戦略を採用した。

決号作戦とは本土決戦であり、

天号作戦とは本土決戦準備のための時間稼ぎとしての

沖縄持久戦のことであった。

4月1日、米軍はあらん限りの物量と兵力を動員して

沖縄に上陸した。

沖縄はまたたく間に武器・食糧とも枯渇状態に陥り、

制海権・制空権もなく孤立無援の状態に置かれてしまった。

米軍は沖縄を2~3週間で占領できると予想していたが、

本来なら非戦闘員である中学生・女学生・県民が

軍とともに防戦にあたったため、

6月23日までの約3ヶ月間、完全に釘付けにされてしまった。

本土決戦の準備の形がある程度整ったのは

7月になってからだったことを考えれば

もし沖縄が2~3週間で陥落していれば、

おそらく日本は全滅していただろう。

沖縄の戦死者のうち軍人は6万人だが、

一般の沖縄県民は14万人にのぼり、

いかに沖縄県民が祖国の防波堤たらんとして

必死の抵抗を試み、勇戦したかが伺われる。

我々日本人が心に銘記しなければならないのは、

この米軍の日本本土侵攻を阻止した沖縄戦である。

沖縄戦で特に心を打つのは鉄血勤皇隊、ひめゆり部隊

の名前で知られる中学生、女学生らの奮戦である。

3月27日、米軍の一大機動部隊が沖縄洋上に迫ると

沖縄県下9校の中学校の3~5年生は鉄血勤皇隊を編成し、

ほとんど訓練を受ける間もなく、

肉親の見送りを受けることもなく、

急遽、陸軍二等兵として戦列に加わったのである。

また、下級生の1~2年生も通信隊として部隊に配属された。

そして7校の女学校の生徒たちは、

陸軍軍属として従軍看護婦となり、野戦病院に配属された。


4月になり戦闘が始まると爆撃により建物は破壊され、

負傷者は日に日に増えていった。

野戦病院も爆撃にやられ、地下壕の中に設営された。

外気から遮断され、足下は地下水で濡れ、湿気に包まれた中を

通路にまで負傷兵を収容し、ロウソクの灯りだけを頼りに、

ほとんど寝る間もなく女学生たちは健気に働いた。

しかし、薬はすぐに底をつき、暗闇の中で苦しみながら

次々に死んでゆく負傷兵の世話をすることは

まさしく地獄の有様であったと思う。

5月に入ると戦局は悲惨を極め、

鉄血勤皇隊の学生のある者は

急造爆雷を背負って敵戦車に突っ込み、

まだ11~2歳でだぶだぶの軍服を着た少年の通信兵は

切断された通信線をつなぐために決死の作業をしたが、

集中落下する敵の砲弾を受け、壮烈な戦死を遂げた。

5月下旬には県南部に総退却することになり、

敵の砲弾の下をかいくぐって移動することになった。

昼は壕に身を伏せ、夜間にぬかるみに足を取られながら

移動するのであるが、

米軍は昼間は壕の中を火炎放射器で、

夜は照明弾を上げて砲撃を繰り返した。

この攻撃の中をかいくぐって退却できたものは

ほとんどなかった。

中でも負傷した兵士を庇いながら移動しなければならなかった

従軍看護婦は無残であった。

そして生き残った者も各自に配られた手榴弾で

壮烈な覚悟の自決を遂げたのであった。

この追い詰められた状況で南部に移動するとき、

全員玉砕することを予想して遺書と遺髪は埋められ、

戦後、運良く生き残った者の手で発掘された。

しかし、遺書の大部分は土中の湿気と雨水で朽ち果て、

判読できたものでも、肉親も戦死してしまっており、

家族のもとへ届けられたものはほとんどなく、

昭和26年に靖国神社に納められたのである。

その中から中学生の遺書を1通紹介したい。


謹んで父母様に呈す。


戦局苛烈になった沖縄は、空襲、艦砲射撃、砲弾で一杯です。

祖母様始め、父母様、弟、妹、お元気のことと思ひます。

とにかく米英を撃って撃って撃ちまくって、

一日も早く大東亜共栄圏確立に邁進しようと思って居ります。

今度こそ敵さんの顔をみることが出来ます。

自分は一人でも多く敵をやっつけてから、

死なうと思ってゐます。

大君の御為に命を捧げて戦ひます。

自分が死んだ後も、永久に日本の国は栄えることでせう。

十八歳(沖縄は数え年で数えるので満16歳)で

二等兵になり、入隊しました。

人生十八年、自分は喜んで死んでいきます。

安心して死にます。

お父さんにお願ひします。

自分の弟盛夫は立派な軍人にして下さい。

お母さんにお願ひします。

妹幸子は立派な日本の女性にして下さい。


大君の御旗の下に死してこそ人と生れしかひはありけり

君のため何か惜しきむ若桜散って甲斐ある生命なりせば


      首里市儀保町3-9 3年3組 安谷屋盛治


球9700部隊野戦重砲隊、真壁にて戦死。


今日の日本があり、私たちが平和な生活を送れるのは、

とりもなおさず、国のために戦った沖縄の人達の

おかげであることを深く心に刻んで、

戦死された方々の功績に対し、

手を合わせてご冥福を祈らねばならない。

沖縄戦の学徒たちは学業なかばの10代の短い命を捧げて

補給もなく援軍もない落日の戦場におもむき、

中学生は陸軍二等兵として軍人になり、

女学生は陸軍軍属として従軍看護婦となり、

天も焦がす砲煙弾雨の中で、

祖国日本の防波堤になって、

一億国民の身代わりになって戦い、

ついに帰らぬ身になったのである。

今、心してこの学徒たちの大和心を胸に刻み、

日本人としての自信と誇りを取り戻し、

後世に生きる者としてその魂を受け継ぎ、

我々の子々孫々の時代にも伝え、

残していくことが我々の責務ではないだろうか。