防衛大学校では12月の第2週目に

第3学年及び第4学年の学生に

冬季定期訓練が実施される。

陸上、海上、航空の各要員訓練と、

第3学年は硫黄島研修

第4学年は基地研修であるが、

今日は第3学年の硫黄島研修を

紹介する。


硫黄島は大東亜戦争の

激戦地として知られるが、

現在は自衛隊の基地が置かれている。

硫黄島へは旧島民らの慰霊や

基地施設の工事などの例外を除いて、

一般民間人の上陸は禁止されている。


防衛大学校第3学年は

自衛隊の輸送機C-1や

C-130で硫黄島に移動する。


松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


硫黄島は父島からは

300 kmの距離にあるが、

本州、グアム島、南鳥島、沖縄本島

からは、それぞれ1,200~1,300 kmの

ほぼ等距離に位置する。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」

島の大半は標高100 m前後の台地状の

比較的なだらかな地形であるが、

島の最南端に位置する標高169 mの

摺鉢山は、その名の通り「すり鉢」を

伏せたような形状をしている。

活火山の火山島であり、地熱が高く、

島の至る所で硫黄泉が湧き出し、

噴出する硫黄ガスにより、

硫黄独特の臭いが立ち込めている。

数千年前の海底火山の活動で

海底に火砕物が堆積し、

それが隆起して誕生した島であり、

過去数百年間の平均で、

世界的にも珍しい年間約25㎝もの速度で、

現在も急速な隆起活動が続いている。



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」

衛星写真で見た硫黄島



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」

硫黄島遠景(左端/南側に

見えるのが摺鉢山)



松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」

摺鉢山


防衛大学校生が硫黄島に到着して

最初に感じるのが暑さである。

12月というのに気温は30度ある。

学生は島内を徒歩で移動。

硫黄島は大東亜戦争末期に

日米両軍が死闘を繰り広げ、

双方で約5万人の死傷者を

出した激戦地であり、

現在でも島の至るところに

戦いの痕跡が残っている。
浅瀬に沈んだままの艦船を見、

赤く錆びたまま今も当時と同じ場所に

佇んでいる砲台や大砲に触れたり、

米軍の上陸海岸や摺鉢山、

迷路のように掘られた粟津壕、

60度以上の地熱をもつ千田壕等に

実際に入り見て回る。
学生は、
米軍の圧倒的な戦力を前に

2万の守備隊を指揮した栗林中将と、

祖国や家族を守るために戦い

散っていった将兵に思いを馳せる。


余談になるが、

帰りの飛行機に乗るため滑走路で

全員整列していると、指導教官が
「ポケットの中身を互いに確認しろ。

半長靴は一度脱いで靴底を叩いて

砂を落とせ。

昔、嫌いなヤツの雑嚢に小石を
こっそり忍ばせたヤツがいたが
絶対にするな。」 と注意するらしい。

硫黄島の砂は一粒たりとも

持って帰ってはいけない。
なぜなら、硫黄島の砂には

国に帰りたくても帰れなかった
多くの将兵の血が染込んでいるから
間違ってでも持って帰れば

呪われるという噂がある。

昔、硫黄島に行ってきれいな石を

持って帰って部屋に飾ってた防大生が
帰って来て一週間後に

朝の点呼に起きて来ないと思ったら

心臓麻痺で死んでいたらしい。

それから防衛大学校では
硫黄島の石や砂を持って帰っては

いけない事にになった。

そのことを知らない学生が、

「なぜ持って帰ってはいけないのですか」

と聞いたら 、指導教官は
「死にたくないなら持って帰るな。」
とだけ言われたそうである。

硫黄島での、遺骨の収集活動は

2万人の玉砕者のうちの

まだ数千人分しか進んでいない。

砕けた骨が砂のようになって散らばり

石や砂だと思って持ち帰ったものが

遺骨である可能性もあるのだ。

工事のために派遣された民間人も

「夜ともなると、かなりの静けさが

島全体を覆います。夜は、水を求めて

島内を兵士の霊がさまようとも言われ、
かならず、部屋にはペットボトルの

水を置いておけとまで言われた」

と証言する。

自衛隊関係者はそのことを認める

発言をするわけにはいかないが、

実際に怪奇現象は起きているという

話は後を絶たない。

怪奇現象が完全に収まったのは

慰霊の為に 天皇陛下が硫黄島に

行幸されたときだけだったとも言われている。