昨夜の私のブログの記事に対して小林隆様からコメントをいただき、

天皇に帰一するという事に触れておられたので、

思い出したことがある。


実は私はこのブログを一度中止して、それまでの文章を消してしまい

先月から再スタートさせた。

その最初の記事の書き出しは


日本人として生きる上において、

精神的基盤となる本が2冊ある。

杉本五郎中佐遺著『大義』と

谷口雅春編著

『天皇絶対論とその影響』である。


であった。

そのときは杉本五郎中佐遺著『大義』について書いたのだが、

谷口雅春編著

『天皇絶対論とその影響』についてはまだ書いていなかった。


今日は

『天皇絶対論とその影響』の中から

「天皇信仰」の文章を取り上げてみたい。


松本恭助の「日本の歴史と文化と伝統に立って」


「天皇信仰」


 天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は 天皇より出でて 天皇に帰るなり。

 天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの 天皇より流れ出で 天皇に帰るなり。

わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、『我』を鼻にかける『忠』は

ニセモノなり。私なきが『忠』なり。

 天皇は 天照大御神と一体なり。天照大御神は 天之御中主神と一体なり。

斯くして 天皇はすべてのすべてにまします。

『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して

再び天之御中主神に復帰するなり。

 天皇を仰ぎ、 天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。

わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。

 すべての宗教は、 天皇に帰一する為の前提として存在の意義があるなり。

すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、

『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。

すべてのものは 天皇の一元より発現することを教へたるなり。

すべての森羅万象 天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。

 天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは 天皇の大御いのちの流れであり、

岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。

『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。


私が小学5年生の時に、三島由紀夫先生は「日本を守るとは

天皇を中心とする歴史と文化と伝統を守ることだ」と

自衛隊員の前で演説し、自決された。

私が三島先生を唯一の師と仰いだのは、人生で最初に出会った

命をかけて「天皇」と叫ばれた方だったからだ。

そして、三島先生について勉強を重ねるうちに、

杉本五郎中佐の「大義」と谷口先生の「天皇信仰」に出会った。


私の思想信条はこの2つに集約されている。


自分が尊いのは『天皇のみたまのふゆ』であるから尊い。


そして杉本中佐が言われるように


宇宙悉く 天皇の顕現にして、

大にしては上三十三天、

下奈落の極底を貫き、

横に尽十方に亘る姿となり、

小にしては、森羅万象 

天皇の御姿ならざるはなく、

垣根に集く虫の音も、そよと吹く春の小風も皆 

天皇の顕現ならざるなし。


であるが故に、この世のすべての生きとしいけるもの、ありとしあらゆるもの、

すべての人に物に事に感謝をささげる気持ちになれるのである。

これを信仰的生き方というのであって、

カルトや形骸化した宗教とは全く違うのである。


私は正月には神社に参拝する。

先祖の命日やお盆には墓参りする。

クリスマスやバレンタインデーもありだ。

○○宗や○○教といった一宗一派の信者ではないのである。

谷口雅春先生は生長の家の教祖だが、私は生長の家の信徒でもない。

私は『天皇のみたまのふゆ』であるから、

天皇の顕現であるすべてのものを尊いと思い、

すべてのものを敬うだけなのである。


感謝合掌