資金が乏しいので深夜の労働をすることにしたのだが、久しぶりの肉体労働でとにかく体がつらい。
脚は動かなくなり、腰もピリピリと悲鳴を上げる。
このままでは自分が何か持たないかもしれない。
ここで肉体的にも精神的にも弱った自分が考えたこと
何かを得るためには必ず自分のどこかを犠牲にして捧げなければ得ることが出来ないのか。
たとえば金
金を得るためには自分の体、精神、時間。何かしらの持ち物を捧げなければ手に入らないのだろうが。
ここで「金を得る」と答えがあるのならまだいい。
金を得るという目的があるのだからそれを叶える手段はいかようにもあるはずだ。金がほしいを叶える手段を自分を切り売りして得ているだけに過ぎない。
ここでこの金にかわる目的が無かったら?
何のために自分を犠牲にしている?
この話を親や友人にしたところ得られた回答は1つ 「はい」
金を稼ぎたかったら自分を切り売りしなさい。労働とはそういうものである。犠牲なくして対価は得ない。
じゃあ目的が無かったら?自分を犠牲にしてまで金を得て生きていたいと思わなかったら?
この意見から導き出される答えは1つみんな自殺するんでしょう。
割り切れない人がみんな死んでいく悲しい世界。
本当にそうなのか
ハワイが好きな知り合いがこういう喩をした。
ハワイに行ったら楽しくて24時間いろんなこと見に行く。寝るのすらもったいないといっていた。
仕事も同じ。楽しかったら無我夢中でやる。そこに犠牲はあり得ない。
サラリーマンの人は必ず対価ありきの話をする。
何か差し出すことで対価を得る。
自分は過去サラリーマンだった時に労働をすることに対価を払うという考えを持ったことがなかった。
すべて己でやりたいと思った。役に立ちたいと思った。興味を持った。そこに自分の対価を払うという考えを持ったことがなかった。
今回まだまだ世の中のことを知らないと実感した。
人は自らを犠牲にして対価を得るのだと
ただ、私はそれを認めない。