抹茶ωさんのブログ

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9時6分。
11年間寝たきりの生活だった父が旅立ちました。
市の海外派遣制度を利用して、アメリカのユタ州へ
行っていた私の長女が、20日の21時頃に帰宅。
3歳くらいまでしか関わることは出来なかったけど
可愛い、可愛い初孫の無事の帰りを待って、
安心したかのように、その日の深夜から容態が
悪くなりました。
酸素濃度と血圧の低下は7月あたりからで、
電話口の看護師さんも急ぎの様子ではないし、
様子を見て朝にでも出掛けようと準備していました。
それでも心配で、先に向かってくれていた叔母から、
もうダメそうだから、早くおいで、との連絡。
急いで向かいましたが、私が病院の玄関を入った辺り
もうすぐ顔が見られる、というところまできて
息を引き取りました。

このブログでも頻繁に書いていましたが、
年々痩せて食べられなくなっていく父を
容態に応じて、看取りに切り替えるか?
ずっとずっと悩んできました。
会話も意思の疎通もできず、認知症状も強くなり
一層どうすればいいのか?解らずにいました。
まだ生きたいと願っているかもしれない。
もう十分だよ、と言っているかもしれない。
尽きかけているとしても、まだそこで息をしている。
そんな父を、看取って行く覚悟ができませんでした。
頭の中では、もう仕方ない、なるようにしかならない
そう思っていても踏ん切りがつかずにいた私に
看取りなんかさせられない、と、きっと父が判断して
くれたのだと思います。

パパはお盆休みの10連休明けで出勤しました。
これだけ休んだら会社行きたくねーなー、と
ブツブツ文句を言いながら行きました。
出勤して約30分で帰ってくることになりました。
そんなに嫌ならもっと休みゃぁいーやー。
父が言ってくれたのかもしれません。
二女は、夏休みの宿題があと僅か残っていたけれど
マーチングや水泳練習もなく家にいました。
二女は元気な父と関わったことはなかったけれど、
施設や見舞いとなると必ず連れ出され、
寝たきりの父を見る機会は、長女より多かったです。
そして、長女がアメリカへ行った頃、
父の元を訪れて、
○○はアメリカ行ったんだよ~
スゴいでしょ~がんばってるんだよ~
と話しました。
その頃は血圧や酸素濃度も上がってきて
落ち着くのかな?と思える状態で、
声を出したり、何かを見つめて険しい顔をしたり
私の名前に反応したりしました。
そんな気がしただけ、なんですが。
今思うと、それが兆候だったのかなとも思えます。
私がもうすぐ到着する、という頃、
先に行っていた叔母は
兄ちゃん、もう少しで△△が着くから待ってな~
と声を掛けたそうで、
それを聞いたから安心しちゃったかもね、と言っていました。

幼稚園の頃から、酒を飲む度に殴られ蹴られ、
投げ飛ばされてケガだらけで学校へ行きました。
母が居ないうえに、なんで私だけがこんな仕打ち…
2年前にパニック障害を発症するまで
本当に恨む気持ちでいっぱいでした。
自分だけが可哀想な子供、こんな父の元に産まれて
なんて不憫なんだろう…きっと周りの人たちも
そう思っていたと思います。
でも、パニックになったおかげで、
色んなことを見つめ直し、考え直しました。
虐待と思っていた暴力は、父の下手くそな愛情表現
だったと解りました。
自分のことを可哀想、不憫だと思っていたのは
自分自身がすすんで選んだことだと解りました。
自分で自分を可哀想な人に仕立てあげていただけ。
殴られたことも、ケガをさせられたことも、
いつも父の目を伺ってビクビク生きてきたことも
決して無駄ではなかったと思います。
小林麻央さんの言葉をお借りすれば、
それが私の人生を代表する出来事ではない、と。
ただ、それがあっただけ、起きただけのことで
本当は大きな、大きな父の愛情に包まれていました。

通夜の時、親族の挨拶の代わりに
父へ最期の手紙を読みました。
私の想いを、父は受け取ってくれたと思います。
やっと11年の寝たきりから解放されて
苦しむこともなくなりました。
とても穏やかな、安らかな顔でした。

父の娘で良かった。
生まれ変わっても、必ず父の娘として産まれたい。

これからは、自分や、自分の家族を
大切にしていく番です。
悲しい時は悲しみ、泣きたい時には泣いて
笑いたくなったら笑います。
不安で怖くても、それはそのまんま受け入れます。
色んな物がたくさん集まって、自分だから。

じいちゃんのおかげ。
ばあちゃんのおかげ。
父のおかげ、そして、パニックのおかげ。
色んな事に気づかせてくれてありがとう。
ずっと私と一緒に居てくれてありがとう。
その時の感情を大切に、これからも生きていきます。





施設に入所している父

先週の水曜日から急な発熱で
呼吸も浅く、血圧が低下して
救急搬送された。

もう、何度目だろう。

その度に、次は施設での看取りを、と
希望してきたはずだった。

パニック障害と診断され
車の運転ができなくなり…
やっと近場と、パパが一緒なら
どこへでも出掛けられるようになり…
子どもたち、叔母たちにも助けられ、
ばあちゃんが亡くなった時も
知らないように乗り越えられてきた。

手術をしたらまた出られなくなって、
家のこと、学校のこと、ボランティアの仕事
不安はあっても、『普通』に動けることが
嬉しくて楽しくて…
これから!っていう時に気絶して、ケガをして。

そして、それを理由にして
父の顔を見には行かなかった。
本当に行けなかった、部分もある。
この1年半、全く会っていなかった。

…………………………………………………………………


私の人生、経験することはないだろう
と思っていたことを経験して、
本当に色々な経験をして、勉強して。

やっと解ってきた、理解することができた
自分の生きてきた人生過去、生き方、考え方。
一つ一つの出来事に関連性はなくて、
自分で勝手に結び付けて、解釈してきたと解って
受け入れることができた。

と、思っていた。

でも、それは、これから起こりうる
万が一の、不測の事態に対処できるように
『心構え』として、『身に付けよう』と
していただけだったのか。

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会話ができない、言葉を発せられない
意思の疎通もできない。
身体は麻痺していて寝たきりで、
もう11年も。
話せないから解らないけれど、
周りの人が見ると認知症が出ているらしい。
だからか?私を見ても、孫を見ても、怒る。
とにかく手が出る、振り払う。

悲しかった。
あの元気な父でなくなった姿を見て
何度泣いたんだろう。
父に対して、もあるけれど、
自分に対して、可哀想だ、と思って
いたのだと思う。
何もできない自分に対して、
情けなくて、悔しくて、責めていたと思う。

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1年半ぶりに見た父は、
骨と皮だけ、と言っても過言ではないほど
とても痩せ細っていた。

救急車の中で、血圧は50まで下がった。
肩で息をして、顔は真っ白だった。
涙は出なかった。
これからどうなってしまうんだろう…
という不安さえ起きなかった。
何がなんだか解らない感じ。

それと、

『その日』も近い、ということ。


手や足を擦る時、

『こんなに痩せてたらきっと、もう…』

そう思わざるを得ないほどの痩せ方。
体力も気力も、生命力なんてありっこない、と
解るほどの痩せ方だ。

『重症です。数日がヤマだと思った方が良い。急変は大いにあり得る』

先生からも予想通りの言葉。
父の兄弟姉妹にも連絡をした。
孫である子どもたちも会いに行った。
いつ電話が鳴るのか…
その日は今にもパニックを起こしそうだった。
いや、2日、3日と経っても
やっぱりいつでも不安なんだ。
1日を乗り切ったと思っても
いつ電話が、の不安は毎日やってくる。

結局、悩んだっておんなじじゃんか……。

……………………………………………………………………………


父を看取る、とは。

話せない、意志表示のできない父の代わりに、
父の最期を決めるのは、私たち家族になる。
次は看取りに、そう口にしていたのは
軽々しかった、か…。

今は、人工呼吸器を付ける一歩手前。
昇圧剤を入れて、最大限の処置をしている。
『延命処置』にはならない、限界ギリギリ。

処置が始まって3日目。
血圧は100まで上がってきた。
ICUから一般病棟へも移った。
ただ、改善が見られたから、ではなく
改善が見られない、同じ状況だから、移った。

このままの状態が続けば…
よく解らないけど…
一体、先生がどう判断するのか?



それでも父は、生きたい、んだろうか。
まだ、生きたい、と思っているんだろうか。
生きたいと思っていると思う、と
私から伝えて欲しいんだろうか…。

私の決断がどうであれ、
最後は父の生命力しかない。
血圧が回復してきた、ということは
生きようとしているのかも。
まだ、生きたいと思っているのかも。
家族が見舞えない時間も、
父は一生懸命息をしてるんだ。
『今』を必死に生きようとしてるんだ。

それを、私は受け入れないといけない。

結果はどうであれ、
『今』を生きて、積み重ねて
『未来』になるということを忘れちゃいけない。

私も、今しかない『今』を生きなきゃいけない。