世界規模個人の感情を無視した マクロな世界



人間個人一人の感情を考慮した ミクロな世界

この二つの見解から考えようと思う

例えばどこかの子供が他人の手によって殺されたとして
そこの肉親や知り合いは悲しみや怒りなどあるが
世界としては日常であるただの1生物の死
前者は個人の集まりである社会としては悪に該当するんではなかろうか
しかし後者にとってその出来事はどうだろう
地球というマクロな世界から見れば
60億の1という人間が死んだからといってどうってことはないんではなかろうか
そこに善も悪もなくただの生物の死となる

ここで注目すべき点は
ミクロ(人間個人)の集まりである社会は何なのかである
ミクロが集まればマクロになるわけではない
世界から見れば人間とはただの地球上に存在する生物のひとつであり
数兆以上さらには天文学的数字の生物の一種なのである
マクロな視点から見ると個人の価値観などは関係なく
蚊の死も人の死もかわらないのである
しかし人間というミクロな集まりの「社会」になってくると
社会としての価値観が新たに芽生える
それは個人としての価値観とは大きく異なり
人間社会というマクロに近い判断を問われる事がある
しかしそのマクロに近い判断も時と場合により
個人、ミクロとしての価値観と同じようになる場合がある
さらにはその社会という物も人種・国・地域などにより分別される
その事からみると
個人(ミクロ)の集まりと思えた「社会」は
実は個人の集まり「小規模なつながり」の数段階上のものになる事がわかってくるのではないだろうか
この「小規模なつながり」の最初のつながりは「家族」
そこから派生し「ご近所」・「市・町・村」・「県」・「地方」・「東・西・南・北」・「国」・「世界における地域(アジア・アフリカなど)」・・・・etc
と社会とはこの個人の集まりの数段階上の存在になる
しかし、個人の視点から見ると 社会とは
「自国または在住国」という視点になる事からかんがえると
上記における社会の見方はマクロにおける見方になり
ミクロな見方とはまた変わってくる事になる

つまり善悪も「マクロにおける社会の見方」と
「ミクロにおける社会の見方」
これに左右される可能性は高いのではないだろうか
しかし考えを進めていくと気づく事がある
ミクロにおける悪とされる出来事は
集団が上に上にいくからといって善になる事はない
その悪という物が薄れていくだけであって決して善になる事はない可能性が高い
ミクロで発生した悪は濃度が薄まるだけであり
その悪という絶対量はかわらないのではないか
しかしそうすると人間は生きている限り悪の蓄積をしていく事となる
そこで注目すべきは時間になってくる
時間とは悪を消していくものではないだろうかか
それと同時に善も消していくと思われる
過去に起こった良い出来事も悪い出来事も時間が消化していく

しかし 上記に考察した社会も善悪も
マクロな視点、地球自身から見ればそれはまったく関係なく
そこには善悪すらないただあるべきことを受け入れる姿がある
マクロの究極視点(宇宙は含めず)から見ると
善悪は0になり価値観も0になり
ただただ受け入れ、許すも許さないもない
その姿は天国やユートピアなど人の理想とする場所を連想させる

ユートピア(楽園)や天国などは場所ではなく
思想の行き着く先ではないのかという考えに到達した