芥川龍之介:「純文学とは、言葉の芸術だ。娯楽ではなく、精神の深淵を覗き込む鏡である。『羅生門』を書いたとき、私は人間の倫理の崩壊を描いた。読者を楽しませるためではない。人間の本質に触れるためだ。」

三島由紀夫:「それはわかる。だが、芸術は孤高であるべきか? 私は『金閣寺』で美の絶対性を描いたが、それは読者の感性に訴える物語でもある。純文学と大衆文学の境界は、時に曖昧だ。大衆文学にも美は宿る。」

芥川:「確かに。だが、純文学は“問い”を残す。結末のない物語、曖昧な心理描写、それが読者に思索を促す。大衆文学は“答え”を与える。そこに芸術性の差がある。」

三島:「だが、答えを与えることもまた一つの美学だ。私は戯曲も書いた。『近代能楽集』では観客に明確な構造を提示しながら、深層に哲学を潜ませた。娯楽と芸術は対立ではなく、融合し得る。」

芥川:「それは君の“美”への執着だな。私は“人間”への執着だ。純文学は人間の苦悩を描く。大衆文学は人間の希望を描く。どちらも必要だが、私は前者にこそ文学の本質を見出す。」

三島:「では、文学とは“苦悩”か、“美”か。“問い”か、“答え”か。読者はどちらを選ぶ?」