当記事は、19:18:17に登場する次の記事への前章
記事題名は、2012年7月16日Yahoo!独話別館記事より
内容は、独話別館記事と、2012年7月15日ウェブリ休憩所記事より
なお、ウェブリ休憩所記事題名を、今日の2本目記事題名に使い回しております
記事題名は、2012年7月16日Yahoo!独話別館記事より
内容は、独話別館記事と、2012年7月15日ウェブリ休憩所記事より
なお、ウェブリ休憩所記事題名を、今日の2本目記事題名に使い回しております
‘吸血鬼’(1967年)
ここで絶妙なオンナ吸血鬼演じたシャロン・テートおねえさん大好き♪☆
口の悪い評論家ジジィが大絶賛した喜劇センスの持ち主
美人コメディエンヌは案外少ないだけに
【殺人博物館~チャールズ・マンソン】
…マンソンのくそったれぃ。17回生まれ変わったかて赦さんッ
カートマン(‘サウスパーク’のデブ)言う所の腐れヒッピーにも劣る腐れ集団
こいつらに8ヶ月の身重を16箇所刺され、26歳の若さで落花狼藉死
アメリカ陸軍将校の父親が職を辞し、ヒッピーの扮装で娘殺害犯探しやったほど
余談ながら
ポランスキーの前後の嫁や彼女たちを見ると、男って学習能力ゼロが一目瞭然
それくらい、無論シャロン含め、皆よう似た顔立ち
俳優としても活動し、パリでの舞台版‘アマデウス’のモーツァルト役だけど
マンソンともども、天才と狂気は紙一重の凶器と言えよう(マンソンへの怒りのあまり意味不明)
ちなみに、ポランスキーの前後の嫁や彼女たちとは
最初の嫁バルバラ・ラス(右側:同じポーランド出身の女優
指揮者カール・ベームの息子と東京ロケ映画で知り合って再婚)
愛人と噂されたナスターシャ・キンスキー(左側:西ドイツ系女優
彼女が10代の頃に…ま、彼女が親父転がしだから?)
現在の嫁エマニュエル・セニエ(中央:フランス人女優。子供2人も生まれてヨカッタね)
ポランスキーは、生まれることなく死んだ我が子にポール・リチャードと名付けた
シャロンと自分の父親の名前を取り、妻とともに埋葬した
後年、ナスターシャ出世作‘テス’のクレジットには、シャロンに捧げる言葉を
トーマス・ハーディ原作‘ダーヴァヴィル家のテス’
シャロンが生前、彼女主演での映画化を夫に勧めたそうな
一枚看板張れる力量は怪しいシャロンに文芸大作、荷が重いんでないかい?
薄倖のヒロインの雰囲気は醸し出せたかしらん
女優スーザン・ストラスバーグの自叙伝によれば
シャロンは本来、金髪でなく、黒っぽい髪
やはり金髪でなく本来は茶色であったマリリン・モンローが
スーザンの母である演技コーチのポーラ・ストラスバーグ
(アクターズ・ズタジオ設立者リー・ストラスバーグ夫人)に心酔し
演技派目指していたを思えば(マリリンは素質充分だったと断言してやる)
セクシー美女も中身は地味で堅実、人は見かけによらないというか
シャロン、マリリンともに生きていたら、どのような女優人生全うしたのやら
生きていたら?
ポランスキー夫妻の生まれざるポール・リチャード君にも言える
生きているがために?
これは…
…よう似てるわな~は置き
右側は、1969年当時のチャールズ・マンソン
左側は、2009年にマンソンの息子であるを告白したマシュー・ロバーツ
マシューは、 1968年3月22日生まれ、イリノイ州ロックフォード育ち
両親について、「50年代の人たちで、私は保守的な彼らに馴染めなかった」
「私を生んだ両親は、狂乱の60年代の人でした」
生後間もなく養子に出されたマシュー
ロバーツの両親を愛してはいたが、自分とは何かが違うと感じていたら
10歳の時、きょうだいから「お前は養子だよ」と知らされたとのこと
マシューは、実父を見つけることで、自分が何者なのか知ることを望むようになった
1997年、実の両親を見つけようと決心
え?10歳から望み、30歳前になってようやく行動を?
米国の法律では、養子に安定した成育環境与えるが最重要課題であり
人格形成期に自分の存在意義を揺るがすような事態避けるべく
子供が18歳になるまで、実親は接触禁止に加え
18歳以降も、子供の意思が優先されるため
子供に会いたい実親は、養子協会名簿に登録し、子供のお慈悲待つだけ
実親に会いたい子供にだって、心の準備期間要るしね
マシューが20年かかって動き出したって不思議じゃない
マシューは、社会福祉サーヴィスに連絡を取り
実母であるテリーさんはウィスコンシン州在住が判明した
彼はすぐに手紙を書くと、彼が息子であると確認したテリーさんから返事が届き
自分の誕生当時は、“マシュー”でなく
テリーさんが“ローレンス・アレキサンダー”と名付けたを知らされた
さらに詳細を訪ねると、どうしても素性は語らない
しかしマシューがしつこく要求したので、遂に凄まじい内容を告白…
1967年、テリーさんがチャールズ・マンソンと知り合った時
彼女の父親は「白人の貧困層のバイカーで悪党」を追い払おうとした
娘は、マンソンのカリスマ的な魅力に惹きつけられており
マンソン・ファミリーと行動をするべく、移動バスに乗り込んだ
が、サンフランシスコで、悪夢が訪れた
ドラッグパーティー、早い話、乱交パーティーで、マンソン御大から強姦され
その時に妊娠したのが、マシューだった
…「あなたは、まるで彼のように見える」
テリーさんはどうやら、子供の父親がマンソンであると常に思っていたものの
生物学的にマンソンの子供と確認していたわけではないよう
それが、マシューの写真を見た後、彼女の悪夢が正夢と知らされた
マシューは見事なまでにマンソンの生き写しだったからだ
マシュー自身は
「私は、彼のように馬鹿ではないが、彼の血を受け継いでいます
とても恐ろしい、私にとっては一大事です
( * 「マンソンの精神分裂症が自分に遺伝したのではないかと心配します」の他
「私は60年代の負の特徴を多く引き受けています」という表現も)
私はガンジーを尊敬しています
私はとても非暴力的な、温和な性格の菜食主義者です」
真実が判明した後
彼の養父は、息子に「何も良い結果は生まない」
マンソンに接触することを反対したという
マシュー自身は、実父が何者であるか知り、深い闇に陥りながらも、自分のルーツ辿りたく
決心まで5年かかったが、終身刑で服役中のマンソンに手紙を書いた
マンソンは、すぐにマシューの手紙に返事を出し、その後には手書きのメモを複数も送ってきた
「マンソンは私に、卍の署名がしてある怪しい手紙を送ってきました
( * 卍は言うまでもなく、ドイツの鉤十字より)
最初は、驚いて落胆し一日話すことが出来ませんでした
私は、食べることが出来なかったのを憶えています」
マンソンは他に、「真実は、真実です。真実は傷つけます」など意味不明な手紙を
「君は、私も父を探したように父を見つけた
その浮浪者は真夜中に電車で去って、そして死んだ
そして、海上に失われました」
複雑な生い立ち持つマンソン自身の幼時期と比較したメモさえも
経歴
祖父母の手で育てられるが、その後は親戚を転々として孤児院に入れられる。その後孤児院を脱走してようやく母に再会するが見放される。このような複雑な出自のため社会に適応できず、9歳の時犯罪に手を染めて以降1967年に釈放されるまでに人生の大半を刑務所で過ごした。
出所後は、家出した少女を集めて「ファミリー」として集団生活を始める。彼自身の風貌が当時の流行だったヒッピーと重なったこともあり、LSDを用いて少女達を洗脳し男性を誘惑させ信者にさせた。マンソンは『聖書』を独自に解釈し、女性は罪人であると信じ込んでいた。数件の残忍な殺人事件を計画し、ファミリーのメンバーに実行を命じた。マンソンを象徴する有名な事件として、1969年8月9日、ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人の無差別殺害がある。
マンソンは自ら殺害を実行することはなく、テート・ラ・ビアンカ殺害事件に関しても実行犯は3人の女性信者で全員が終身刑となり現在も服役中であるが、たびたび仮釈放申請が出され、そのたびにマスコミの関心を集めている。マンソン自身にも1971年4月19日に死刑判決が下された。しかし続く1972年2月にカリフォルニア州では死刑制度が一時的に廃止されたため、これは自動的に終身刑に減刑された。後年同州の死刑制度は復活したが、マンソンには影響が及ばず、現在もカリフォルニア州刑務所で服役している。
2007年の仮釈放に通算11回目の申請を行ったが、「依然として他者に理不尽な危険を及ぼしており、接触する人間に危害を加える恐れがある」として却下された。また、2012年には通算12回目の仮釈放の申請を行ったが却下されている。次回の申請は15年後の2027年である。
( Wikipedia:『チャールズ・マンソン』より引用 )
マンソンに一つだけ同情するとしたら、『父親不在』
マンソンの父親は、実母の商売柄、彼女自身にも不明であったはずですな
その点、養子ながら両親の揃った温かい家庭に育ったマシューは幸運だったものの
「マンソンは自分の実の父親であり、何らかの感情は持たざるを得ません
マンソンを愛していたくはありませんが、嫌うようなこともしたくありません」
マシューが実父について葛藤を抱えているように
父親の存在は男の子にとって、大人の男になるための見本であって、いい加減な真似は許されない
マシューは
「潜在的な障害が、常にありました
私が心配しているのは
『自身の出生の母または父に会うこと』
『彼らがあなたを愛していて、両手を広げてあなたを歓迎してくれる』
と思い込んでしまうことです
マンソンはそういう人ではありません」
その一方では
マンソンから送られた刑務所の電話番号にかけることはしないが
「もしも電話でマンソンと話をするならば
『誰もがこれまで想像してきたチャールズ・マンソン像よりも
私は多くの点で、あなたがどんな人なのか理解出来る』」
一度も安定した家庭に恵まれず育ったマンソン
血は繋がらないが、平凡でも心温かい両親に育てられたマシュー
対極にある父と息子ながら
自分の意思で生まれてくるわけでない子供をもうけることが如何に重大事か
子供を守るべき親の責任果たさないでチャラけていることが如何に罪深いか
マンソンのように苦労させられた子供、マシューのように恵まれていた子供
両方から見て取れるよね
家庭崩壊と父親不在が、女の子に及ぼす影響も書いておくと
マリリン・モンローが、実父の居場所を知り、連絡を取ったら
電話に出た女性は、夫に取りついでくれたが
「何か話あるのなら、弁護士まで」。夫からその旨を伝えられたそうな
娘をタカリ屋と思ったらしいクソ親父、何が腹立つって
後年、危篤に陥った際(その後、回復した)、娘に一目会いたいと言い出したこと
マリリンが世界的有名人になっていたからだろ?
マリリンの母親に「妻に相応しくない」と言い切り
幼い娘には会おうともしなかったくせに、図々しいんだよ
生涯、父親的強い男性に憧れていたマリリン
有名人になってからは、自分が男性を拒絶する立場を手に入れたので
「どなたでしょうか。存知上げませんわ」
厚顔無恥のクソ親父をキッパリ拒絶したのは言うまでもありますまい
有名人である娘が親父を拒絶したといえば
ポランスキーの‘テス’に主演したナスターシャ・キンスキー
怪優クラウス・キンスキーの娘で、全員母親の違う4人姉弟の次女
ナスターシャの母親は、16歳で娘を生んだ。夫と別れた後、若い母娘はかなり苦労したみたいね
1980年、ナスターシャの来日時、クラウスが映画撮影のため東京に滞在していた
娘の記者会見に顔出したいと申し入れしたら、娘は「アタシを利用しようとしてるのよ」と拒絶した
ナスターシャの通訳を務めた映画字幕翻訳家、戸田奈津子おばさんいわく
「都内の公園での撮影中、ナスターシャは捨て猫ちゃんを見つけたの
真っ白いドレスが汚れるのも気にせず、猫ちゃんを胸に抱いていたわ
あのコ、よほど寂しい少女時代を送ったんでしょうね」
1984年、ナスターシャは『未婚の母』(この表現、メッチャ懐かしいわ~)になった
息子は一説によれば、交際していた一人である某米国人男優が父親であるらしいものの
一般的には、ナスターシャが息子の誕生後に結婚したエジプト人プロデューサーとされている
夫婦間には娘も生まれ、ナスターシャは家庭守る努力は必死でやったよう
しかし離婚家庭の子供はどうしても、両親の揃った家庭がイメージ難しいとあって
やれ別居だ離婚だ、海を越えての親権争いだに明け暮れた挙げ句
1990年代、新たにケニヤという娘をもうけた相手というのが
30歳近く年上の、米国音楽界の大御所クインシー・ジョーンズ先生とは…マジ腰抜かしたわ~
子供の人生を左右する親の責任はどれだけ重いか、わかった?