IQなんかくそくらえ!

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数学の学習塾開設を目指す会社員のブログです。
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この世には価値の高い人間と低い人間がいます。たまに「人間の価値に差はない!全ての人間が等しく同じだけの価値を持っている!」と言う人がいますが、それは間違っていると思います。楽天の田中将大選手やイチロー選手、将棋の羽生さんやiPS細胞を発見してノーベル賞を取った山中教授など、そういう人たちは間違いなく価値の高い人達です。それに対し、ろくに働きもしないニートや犯罪者などが、そういった人達と同じ価値を持っているはずがありません。


では、「人間の価値」というものはどうやって決まるのでしょうか?こう質問すると、多くの人が「能力の高さで決まる」と言うかもしれません。または「人柄が良い」とか「人望がある」とかそういったことで決まるという人もいるでしょう。そういった意見も間違ってはいないと思いますが、少しポイントがずれていると言えます。それらはあくまで相対的な要因でしか無いのです。


高い能力を持ちながら評価されない人というのがこの世には多くいますが、そういう人達は「能力=価値」だと考えていることが原因の一つではないかと私は思います。勘違いしてはいけません。「能力=価値」では無いのです。


私が考える人間の価値を決める要素、それは需要と供給です。


何という身も蓋もないことをと思うでしょうが、本当に人間の価値は需要と供給で決まります。いや、人間に限らず、全てのものの価値が需要と供給で決まると言っても過言ではないでしょう。需要が多く、供給が少ないものは価値が高くなります。逆に需要が少なく、供給が多いものは価値が低くなるのです。こればかりはいつの時代もどこの場所でも変わりません。


私は製造業の企業に勤めていますが、そこでは多くの優秀な技術者、研究者といった人達がいます。彼らは間違い無く優秀な人達でしたが、そういった人達でもリストラの対象になることはあります。何故なら、彼らの持つ高い能力自体への需要が無くなってしまうことが起こり得るからです。


例えば、薄型テレビなどの技術者はどうでしょうか?現在日本では薄型テレビの市場は完全に過当競争状態にあります。あらゆる電機メーカーがしのぎを削って高品質なテレビをより低価格で売るという競争が激化したため、薄型テレビはどんどん安くなっていきました。消費者の立場からすれば嬉しいことですが、それを作っているメーカーの側からしてみれば薄型テレビの市場は全く儲からないものになってしまっているのです。そのため、最近では薄型テレビの市場から撤退する電機メーカーも増えてきています。


そして、薄型テレビの市場から撤退した会社の中の薄型テレビの技術者達はどうなるでしょうか?若い技術者であれば他の部署に転属するということになるでしょうが、年配の技術者はリストラの対象になることも十分にありえます。つまりどれほど優秀な技術者であったとしても、会社がその能力を必要としていなければ無価値だと見なされてしまうのです(もっとも会社を辞めたあとで薄型テレビを開発している別会社に雇ってもらえるとは思いますが)。


薄型テレビの市場の話でピンと来ない人がいるかもしれないので、更に極端な話をしてみることにします。皆さん、もし「どこでもドア」が発売されたら世界がどうなるかということを考えてみてください。世界はより便利になって理想郷に近づくと思いますか?私は世界が大混乱に陥ると思います。犯罪に利用されるということもあるでしょうが、それを差し引いたとしても、大変なことになるでしょう。


もしどこでもドアが発売されたら?
・電車や飛行機などは必要なくなるため、鉄道会社や航空会社は全て倒産。
・車も楽しみ以上の必要性が無くなってしまうため、スポーツカーやレーシングカー以外の市場が消滅し、トヨタやホンダなどの企業も大幅な業務縮小を迫られる。
・電車、航空機、船舶、自動車の部品を作っている会社もほとんどが倒産。
・運送会社などもほぼ全て倒産。
・道路や橋やトンネルも必要無くなるので建設産業も大打撃を受ける。


つまり、どこでもドアというとんでもなく便利な道具によって現在の多くの企業の仕事に対する需要が消滅してしまい、その結果多くの人が仕事を失い、街には大量の失業者が溢れかえることになります。


また、もし全ての病気を一瞬で直してくれる機械が発明されたらどうなるでしょうか?そうなれば医者はただの「物知りな人」でしかなくなり、存在意義が無くなってしまいます。そうなればほとんどの病院がつぶれてしまい、医者はみんな失業者になってしまいます。


お分かりでしょうか?要するに優秀な技術者だろうが医者だろうが、巨大企業だろうがその価値は需要と供給によって決まってしまうということです。そして需要が無くなってしまえば「無価値」と見なされて消え去っていく運命にあるのです。つまり、人間の価値というものは能力以上に社会全体の需要と供給つまり世相に大きく影響されるものなのです。だから「優秀な人間になれば価値の高い人間になれる」というように単純に考えていると思わぬ落とし穴にはまることがありえます。


「能力が高いのにその能力に対する需要が無いため、無価値になってしまう」というのは一番最悪でしょう。高い能力を得る為に必死になって頑張ってきた努力が報われないのですから。では、逆に「能力は高くないのに価値が高い」ということは有り得るでしょうか?私はYESだと思います。高い能力を得るための努力を否定するつもりはありませんが、能力が高くない状態でも価値の高い状態になることができるのであれば、そこから更に能力を高めることでもっともっと価値の高い状態になることができるはずです。なので、ビジネスを成功させるためには世相を読んで何に需要があるかを見極めることが能力を高めることと同じかそれ以上に重要なことでしょう。


「能力は高くないのに価値は高い」という状態を実現した人達で思い浮かぶのは、全く楽器が弾けないのに紅白出場まで果たしたエアバンドのゴールデンボンバーなどがその典型だと言えるでしょう。彼らは作詞作曲とボーカルをやっているリーダー以外は全く音楽ができず、楽器も弾けないのに大人気です。彼らよりも演奏が上手いバンドはいくらでもいるでしょうが、彼らほど客を集めることができるバンドはほとんどいないでしょう。


ゴールデンボンバーが売れたのは、彼らは楽器が弾けなくてもバンドにおいて最も大切なことを理解していたからだと思います。バンドにおいて最も大切なこと、それは「客を楽しませる」ことです。どれほど華麗な演奏技術を持っていても、楽しませることが出来なければ客は来ません。もちろん華麗な演奏によって客を魅了することができれば素晴らしいですが、演奏が上手い人はついつい「自分の演奏技術を見せ付ける」ことが目的になってしまい、「客を楽しませる」ことを忘れてしまうことがありえます。つまり、華麗な演奏技術を持っているというプライドが客の需要に応える上での障害になってしまう訳です。


ゴールデンボンバーは楽器の演奏ができなかったからこそ不要なプライドを捨て去り、「客を楽しませる」ことに徹底的に集中できたのではないかと思います。そして、ライブに来る客の「楽しませて欲しい」という需要に対して徹底的に応えた結果が今の彼らの成功に結びついているのでしょう。


ゴールデンボンバーを邪道だとか本当のバンドでは無いと言う人もいるでしょうし、華麗な演奏技術を持っている人達からしてみれば「あいつらよりも自分たちの方が価値が高いはずだ!」と思っているかもしれません。「演奏能力の高さ=バンドの価値の高さ」だと考えているからそう思うのでしょうが、実際には客の「楽しませて欲しい」という需要に応えているゴールデンボンバーの方が客から見れば価値が高いと言えるでしょう。


注意しなくてはならないのは「自分が価値を持っている」と考えてしまうことです。勘違いしてはいけません。「価値」とは人が持っているものでは無いのです。価値というものはあくまで社会から評価されることによって与えられるものであり、現在の世相がたまたま自分の持つ能力に対する需要のある状態になっているために価値が与えられているというぐらいに考えておくべきです


ゴッホの絵はゴッホが生きていた時は千円程度の価値もありませんでしたが、現在は何十億円という価値があります。では、ゴッホが生きていた時代からゴッホの絵には価値があったのに、その価値に社会が気づいていなかったのでしょうか?それは違います。ゴッホの絵はその当時は間違い無く「価値のない絵」だったのです。現代の世相がたまたまゴッホの絵に対する需要のある状態だから、「価値のある絵」になっているだけです。世相が変化すればゴッホの絵であろうとまたゴミ同然の価値になることも有り得えます。


ゴッホの絵ですらそうなのですから、人間の価値も世相の変化によって簡単に様変わりするということは肝に銘じておくべきでしょう。