定年退職したものの、未だに未練たらしく現役(高校教員)の目指したところを綴ってみたいと思いました。




大河ドラマにハマってしまった。

というのも、「歴史」って、今に生きる私たちにとって何なのか、と思ってしまったからです。


現役時代、この歴史について、その専門家である社会科教員に、

「歴史を教えるとは、具体的には何を教えるのか?」

と伺ったところ、さも学習とは如何なるものか、と言わんばかりに、

「社会科は所詮,暗記科目だからね」

との回答でした。



ひょんなことから、小林秀雄氏の著作に興味を持ちました。


興味を持ったのは、「歴史を学ぶ」とは何か、ということです。


私は専門は数学、

ドップリ理系です。


ただ、古典文学や明治初期に興った、近代日本文学に〝憧れています〟


憧れ、なのでまだまだ何も分かってません。


でも、この文学分野に関わった作家たちには、私の長い間の生活そのものである「数学」と、著しく重なるものを感じます。

つまり、

「何のためにコレをやっているのか!」

に、もがいているのですね。

「何のために」を、常にその手の中に掴み取っておこうと毎日を生き抜いているのですよ。



さて、学校現場ですが、

小手先で、テストの点数を稼ぐテクニックを教え、保護者から評判の高い教育現場があります。


否定はできません。

望むものがあり、

望みを叶えています。


ただ、敢えて、ものを申すなら、

〝それで、何を得たのですか?〟

です。





数学のテストでハイスコアを取れる、

その事で、親、兄弟、周囲の友人、友人の家族、

さまざまな人から、

「あの子は数学ができる!」

と評価される。

にも関わらず、私たち数学教員が基本的な問いを聞いてみると、何も分かっていない。

(本当ですよ、本当に何も分かってないんです)

数学のテストで点は取れても、

「数学そのもの」が何なのか、全く理解していないのが現状です。

一体、何を学んでいたのでしょう?


「数学テストでハイスコアが取れる」(①)

と、

「数学が分かっている」(②)

の違いは、

①は、

・問題文を読んで、

・問題文自体はサラッとしか読まず、

・問題文のニュアンスから過去に計算したことがある計算手順を記憶の中から引っ張り出して、

・何も考えず、その手順で数値代入によって答えの値を計算する。

です。

ここには、どの段階にも「数学」は存在してはいません。

でも、出題者が、過去問通りの、何も捻ってない「まんま」の問題を出しているものですから、解答者の方は、まるで「計算手順のラベル」程度にしか問題文を見ていません。

〝問題文を数学的に吟味する〟

なんて必要は全くない問題を解いているのですから。


②は、

たとえ「まんま」の問題でも、「まんま」なのか、「捻り」があるのか、先ずは問題文をちゃんと読みます。

で、もしも「まんま」だとしても、「丁寧に」数学としての解答を仕上げます。

数学が分かっているので、その解答の記述は実に見事なはずです。

また、

もし「捻り」があるなら、その捻りなりに「数学します」!

基本がしっかりしてますから、多少の捻りがあったところで、そんな捻りに「蹴躓く」はずがありません。

やはり、見事な解答を仕上げるでしょう!


雲泥の差ですね。

「計算術」程度で数学ができた気になっているのでは、気の毒でなりません!

従って、①タイプの学生の「勉強」という概念は、「暗記」です。

内容などを理解する必要はないし、ひょっとすると、この「何故そうなるかの根拠」となっている基礎・基本が勉強の最重要項目であることさえ意識は働いていないのでしょう。


「何故」など必要ないのでしょう、手順だけで事足りている現状があるのですから。

きっと、語呂合わせだの、節をつけるだのと、暗記をしやすい様な工夫はしているかもしれません。

あの、「み・は・じ」などという、最低極まりない学習姿勢の摺り込みが、この様な学生の「勉強観」を作ってしまっているのでしょうか?


まあ、確かに「手順暗記」でハイスコアを取れる問題を作っている我々こそが諸悪の根源なんですがね。

ただ、学校というものは組織であって、教育とは全く別次元の「お定め」というものがあります。


だって、9割の生徒を一遍に赤点、だなんて事やったら、教員は管理職に、管理職は県教委に「ご指導」を受けることになります。


でも、何処かで学生たちが、

「本気な学習をしないとテストで点が取れない」

「本気な勉強の分だけ、点が反映される」

という試験が始まらない限り、生徒は当然、楽な方を選びますよねー。


私が関わった「教育」という現場で、

数学を単なる「計算術」と思い違いをしている方々は、

・保護者、

・学生本人、

・社会一般、

・そして、学校現場の数学以外の教員、

更に、

・学校現場の数学教員


もちろん、皆がみんな、ではないでしょう。


ただ、先の例の様に、

歴史について、小林秀雄氏が、本居宣長の想うところを引き合いにし、強く皆に訴えた、

「歴史を自らの事件として理解し、取り込むこと」

に対し、

学校現場の、

しかも大学まで出て、

教育の現場で、

歴史を学生に語るべき当の教員その人が、

その口から、

「所詮、社会科は暗記科目だからね」

とは何ごとだろう、と思うのです。


では、学校における社会科とは、

ただの「クイズ」でしかないのだろうか⁈

そう、受け止めるしかない事態でした。


大河ドラマ『麒麟が来る』を観終わりました。

明智光秀は史実としては資料がなく、充分な根拠は確定できないそうです。

何故、本能寺だったのか、その思うところは本人以外知る由もないのかもしれません。


大河ドラマは、所詮、物語としての一作品。

作者、演出家の思惑があちこちにあるのでしょう。


とは言え、ただ数少ない資料から、我々はその時に何が起こったかを理解しようと努めるべきだと確信しています。

物語を面白、可笑しくするのが目的でなく、

「当事者は何を思い、何を目指し、何を成そうとしたか」

を読み取れる技量を高めるのが歴史であるはず。

その背景には、〝人〟!


人は如何なるものか、を理解しなければ歴史は読み解けないものです。

小林秀雄氏も、本居宣長の業績を通して、今に生きる我々に、これを訴えています。


にも関わらず、当の学校現場では、

この歴史の「専門家」が、

〝所詮、社会科は暗記科目〟

と、さも悟ったように断じているのは、正に現在の世間全体に覆い被さる「勉強」というものの、本質的な思い違いを感じざるを得ません!


点が取れれば勉強が出来る子。

テストで高得点が取れる子になってほしい、との親心。

それで、小さい時から学習塾通い。


それで、当の本人は何を身につけていますか?


つくづく思うのです。

学生に数学を教えていて、

数学を理解する上で最も大切なもの、「素養」とは、


「人に対する理解」

「もの、自然に対するまっすぐな姿勢」


小林秀雄氏、本居宣長のいう、

「やまとごころ」

です。


歴史を単なる時代のひとかけら〝切り取ったスライス〟としてしか教えてない学校現場は、それ自体、教育の「教」ではあっても、「育」ではない、そう思う気持ちで、大河ドラマ『麒麟が来る』を観終えました。


世の幼い子供を学びに向かわせようとしている保護者の方々、

技法は絶対に必須要件ではあります。

学ばせてください。


ただ、その一方で、

技法を学んだ分だけ、同じ重みで、「やまとごころ」を学ばせてください。

それは、ご家庭で日々、当たり前の日常の中で示し、伝えるものです。

学習塾に丸投げでは、学習塾も困る事でしょう。


歴史は、クイズではありません。

歴史は、その時、その時代の、その立場の人々の、悩みに悩んで下した生き方そのものです。

人の、太古の昔から行き詰まり、あがき、のたうち回って、しかし自ら決断した諸々、よろずの出来事です。

何故、他人事でしょう。

全て、繰り返し今の自分に起こる一つ一つの現実です。

なすべき根拠を何処に置くべきか、そこにその人の人としての姿勢が表れます。

表面づらを取り繕って、高々、目先の評価を誤魔化したところで、身に纏った薄皮はたちまち世間に揉まれ、剥がされ、ボロボロの自分を晒す羽目にならぬよう。先ずは、歴史を学ぶ姿勢を確立したいものです。


学生は、「学び」を学ぶべきです。

クイズの解答をより多く答えられる事が目的ではないのですから!