終戦記念日の前日(日本がポツダム宣言を受託した日)ですが、

目的の一つであった慰霊の旅に出ることができました。

 

第二次世界大戦の激戦地の1つ、ペリリュー島に行く機会を得ました。

個人で行くと、船の手配や、現地の車の手配やらで大変なので、

ツアーに参加して、日本人ガイドさんの案内をお願いしました。

 

今回は写真を中心にご紹介します。

 

ペリリュー島が激戦地だったことは意外と知られていません。

島の飛行場を巡り、日米が73日間に渡って戦い、日本軍は玉砕をしました。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

(wikipediaにかなり詳細に書かれています。前日熟読したので、当日もかなり頭に入りました。)

 

コロールから美しい海をボートで渡り、世界遺産「ロックアイランド」のスキマを縫うように、

約1時間の絶景の旅を楽しみます。

 

そして、コロールから約40km離れたペリリュー島へ到着しました。

↑北波止場にて

 

すぐ近くには、旧日本軍が要塞化した1000人洞窟があります。

↑1000人洞窟入り口。黒いのは米軍の火炎放射器の痕。

 

中は1人で入るのがためらわれるほどの長さと「戦いの痕跡」で溢れていました。

↑ビール瓶が大量に放置されていましたが、手榴弾に用いるためだったようです。

 

パラオの法律では、戦跡に触れたり、持ち帰ることが禁止されています。

約73年間、すべてそのままで放置されており、生々しさと、恐ろしさを感じます。

 

米軍は島を焼き尽くした後(日本軍は洞窟に潜んだいたので無傷です)、

島の南側から攻めたので、北側は南側と比べ、大きな被害はなかったようです。

そのため、住宅地は今でも北側にしかありません。

 

その後は戦没者の慰霊です。

この旅の目的の1つでもあります。

 

↑沖縄の塔。横には戦没者を祭る「みたま」の塔がありました。

 

車を進めていくと、旧日本軍の倉庫跡(だったはずです)があります。

現在ではペリリュー第二次世界大戦記念博物館になっています。

 

↑博物館外観。機銃掃射の跡が今でも残ります。

 

↑博物館内。軍旗のレプリカ。軍旗奉燃は玉砕を意味します。

 

だんだんジャングルの奥のほうへ入っていきます。

絶対に歩いてはまわれなかったので、ツアーにしてよかったと思いました。

 

旧日本軍司令部が、今もなお建っています。

↑当時はここから海が見渡せたそうです。

 

↑内部。和式トイレの跡です。

 

すべてが残されており、生々しさを語ります。

日本の建物は大変丈夫とのことで、台風が通過するときは

この建物内に避難することがあるそうです。

 

途中には当時の面影を残すものも置かれています。

↑旧日本軍の戦車です。軽い構造だったため、弾が貫通しやすかったそうです。

 

 

島の南側は、73年前とは異なり、のどかな時間と美しい海が流れています。

↑オレンジビーチは米軍が上陸した場所です。

 大変な死闘だったようで、天皇・皇后両陛下も慰霊されています。

 

↑3年前に、天皇・皇后両陛下がご休憩なさった場所です。

 中に入ることもできました。3年前の写真が飾られていました。

 

バスは最南端に進みます。

天皇・皇后両陛下が慰霊されたことで有名な、ペリリュー平和記念公園です。

↑上は貯水層になっており、飢え死にをした兵士たちへの平和のメッセージが込められています。

 

↑内部。日本政府よりメッセージが込められています。

 

天気がいいと、10km先のアウンガウル島も見ることができます。

この島も激戦地と大変有名です。

 

途中にはゼロ戦の残骸もありました。

↑コクピット。どれだけ軽量をしたかが一目瞭然でした。

 

↑山の中腹には米軍の戦車もありました。

 日本軍の戦車とは「大人」と「子供」の差があるようです。

 

 日本の戦車の砲弾は3.5mm、対して米軍の戦車の砲弾は7mm。

 資源に大きな差があった戦いでした。

 

戦車のすぐ上には、日本軍の大砲があります。

↑この大砲は東側を向いているため、南から攻められた実践では

 ほとんど使われなかったそうです。だからきれいなままなのだとか。

 

最後に、島の中央へと向かいました。

↑近年再建されたペリリュー神社です。

 

横にはこのような石碑もあります。

 

Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and

patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。

此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を。」

 

上記は、米海軍司令長官 チェスター・ニミッツの言葉です。

陸軍の司令長官がダグラス・マッカーサーであったことは知られていますが、

この2人はこの戦いについても対立をしたそうです。

 

この言葉、私には強く突き刺さるものがありました。恐らく忘れられない言葉になったと思います。

 

最後に、歩兵第二連隊隊長、中川州男(なかがわくにお)大佐終焉の地と言われるところに行きました。

 

↑激戦地であった「死の谷」。まだ爆弾が置いてあります。

 一歩踏み外すと地雷原だそうです。

 

↑終焉の地。「玉砕」を意味する「サクラ・サクラ」を電文して

 中川大佐は自決をしたそうです。

 

飛行場を巡った戦いも、時間がかかりすぎたため、

結局、あまり使われることがなかったという結末。

 

そして、終戦を知らず、約2年間、34名の兵士たちが洞窟で暮らし続けたこと。

 

多くのエピソードが残されています。

 

ガイドさんは元自衛官の方とのことで、詳細に語ってくれました。

ガイドさんはこの島に骨を埋め、後世に伝え続けたいとのことでした。

 

そんな想いを受け止めつつも、言葉にできないものを見てしまった現実。

 

机上では決して学べないことを、大量に学び、島を後にしました。

 

教員として、一人の人間として、この島を訪れたことを決して忘れることは

ないでしょう。次は私が生徒に「何かを」伝える番です。