平成25年7月28日
JWXX様
私の疑問に対する答が、常に「エホバありき」、「聖書ありき」になるので、今回いただいた書面に付いてのコメントをさせていただく前に、もう一度、議論の目的とスタンスを双方で確認させてください。
1.議論の目的:
ほかの宗教にも言えることが多いが、エホバ信仰は、「エホバありき」、「聖書ありき」というものではないかどうかに付いてハッキリさせる。(「ありき」は「正しい」という意味)
平たく言えば、「なぜエホバなのか。」、「なぜ聖書に書かれていることはすべて正しいのか。」という合理的な理由があるかどうかを確認することです。
2.議論の前提条件:
「神がこう考えている、こうした、ああしたから」、「聖書にこう書かれている」ということを、上記議論の目的である確認の根拠としない、即ち、合理的理由としない。(議論の目的が確認の根拠にはなりえない。)
あくまで、証拠、合理性、理性、一般性、社会常識、人間の自然な気持ち、といった普遍の事実なり、原理なり、論理で持って議論し、例外や奇蹟、現象の一部を取り出して、残りの例外とは言えない部分を覆い隠すようなことはしない。
3.今までの議論:
私の見解は以下です。
「Yes」又は「No」の答になるように、一問一答をお願いした私の質問に付いて、きちんと解答をいただいていない。
答として、私に頂いたものに付いて言えば、「聖書にこう書いてある、ああ書いてある。」ということばかりで、「議論の目的」を逸脱し、「議論の前提条件」を無視したものばかりである。
用いられた、砂漠の一軒家の例えについては、本質の違うことを混同したもので、例えにできないもので、また、「作る」と「創る」の言葉の意味の違いを無視しており、エホバ信仰を理解させるために用いられる資料のレベルが低すぎる、言い換えれば、音声により言葉を理解できるようになった小学生の低学年程度のものではないかと考えざるを得ない。
引用される科学的な例についても、表層的にすぎず、単に、信仰の前提となる「創造論」をなんとか正当化しようとするために用いられた、無知な人、或いは、その科学分野に疎い人に対する説得用資料としか思えない。
社長が秘書に口頭筆記させたもとのと、霊感とかいうものにより教祖が神の言葉を聞いて書き記したというものを、おなじ土俵に上げて論じるようなことも、全く的外れな論理構成と言わざるを得ない。人から人への指示、神から人への伝達、こんなもののどこに作者特定の共通性があるのか。
4.本日までの議論で、私が、私の妻や○○さん、JWXXさん、「エホバ信仰」に対し行った評価:
「エホバ信仰」の信者の以下の点についての認識が消失してしまっている。
1)「神が望まれている。」、「神の教えである。」、「聖書に書いてある。」、などという理由付けをして、自分が社会や家族に引き起こす迷惑や問題を正当化することは、神や聖書に自分の責任をなすりつける無責任以外の何物でもない。
2)仮に、上記のような理由が正しいと自分が判断したからというなら、その判断により引き起こされる迷惑や問題の責任は、本人にある。
3)判断ではなく、「上記の理由が正しいと信じる。」という信仰の下に引き起こされる迷惑や、問題についても、その責任は、本人にある。
4)この責任に対する認識を意図的に排除して、自分の満足を得ようとすることは、罪以外の何物でもない。
5)人の性善、性悪の二つの性格についてはさておき、親子の情、友情などの人情というものは、人が自然に抱く感情であり、これらが、性悪によるものでなければ、社会の道徳や秩序を乱さない限り、何に於いても曲げられるべきものではない。
6)このように考えることこそが、良心、良識であり、それは、人間が、人間あるための条件であるからである。
7)仮に宗教が、この原則を認めないなら、最早、宗教の宗教たる目的を自己否定するものであり、所謂カルト宗教とまでは言わずともセクト宗教と言わざるを得ない。
5.今後の議論:
議論の目的が散逸しないように、また、議論の条件が外れないように、もう一度元に戻って、最初に私が提出しました一問一答を一つずつ、確認させてください。
6.本日7月24日に頂いた書面に対するコメント
1)国語辞典
正常な人が理性で持って理解すると、「信仰」はまさに国語辞典に書かれている定義になるでしょうし、これを間違っているという理由など皆無だから、そう書かれていると理解します。
国語辞典の定義は間違っているというような議論をもちだすなら、言葉の意味を自分の都合のよいようにどのようにも変えられるということになり、言葉を否定することになるわけで、コミュニケーションは最早意味をなさないものになります。
私は、辞書を調べて「信仰」に付いて述べたわけではないのに、まさに、私の理解と同じであったことは、私が変人や狂人ではない正常な人間であると確信でき、喜んでおります。
2)JWXXさんが参照される、ヘブライ人への手紙11章1節 「信仰とは、望んでいる事柄に対する保証された期待であり、見えない実体についての明白な論証です。」は、その内容そのものにこじつけがあります。というか、むちゃくちゃな話です。「信じれば救われる。信じれば、夢がかなう。」といういつもの宗教の言葉を、恰好を付けて表現したにすぎないのではないですか。
「保証」がないから「期待」なのです。言葉の意味や定義を変えるためのこじつけとしか言いようがありません。
この乱暴をサポートするために、「信仰とは、」いう言葉を持ち出して、「信仰すれば、期待が保証される。」という風にこじつけを認めさせるものです。それにしても驚くべきこじつけですね。
こんなことを聖書で言ってしまえば、信仰していたのに期待が実現しなかったときは、「信仰が足りなかった。」とか、「神」が期待の実現をすべきでないと判断されたから、というようなこじつけの言い訳を、また、せざるをえなくなるのでないでしょうか。
「見えない実体についての明白な論証」などという言い回しをして、まず、人の認識を、見えない領域に持ち込んで、具体的な証拠や合理性を提示する必要性を排除するわけで、このやり方は、まさに、国語辞典の定義に表現されている「理屈を超えて」「経験や知識を超えて」という、信仰の本質です。
同節によれば、「信仰は、見えない実体についての明白な論証」であるということになりますが、 そもそも「明白な論証」そのものが、明白ではありません。それが本当に論証であるという証拠もありません。信仰とはそういうものだと言っているだけなのです。
この節の一体どこに、価値や意味があるのでしょう。
信仰に合理性を持ち込む必要がないようにしようという意図でつくられたとものとしか言いようがありません。
3)コリント人への第一の手紙1章20一28節に「賢い人はどこにいるのですか。・・・・有るものが無になるようにされました。」と書かれていることは分りましたが、それが一体どうしたというのですか。
愚かさ加減を比較して神がどうしたこうしたと述べるのは自由ですが、(全知全能の万物創造の主である)神たるものが、その創造物の一つの人間に対してとる行動について、こんなレベルの低い話を、勿体付けて述べるという聖書のレベルの低さに驚くばかりです。
自分の創造したもののなせる業を、変えさせたり制約したりするほど、神は暇なのでしょうか、ゲーム付きなのでしょうか、創造物となってしまった当の人間は大変な迷惑ですよね。
4)つまり、要約すると、信仰は、理屈を超えて信じ、根拠のないものを信じさせようとするものであり、「理性を捨てて信仰」を勧めていることになり、同時に、自分に誇りを抱き、真理を認識しようとする、人間の持って生まれた本能をマインドコントロールして消失させようとするものということになりませんか。
5)ですから、生活に困らない正常な人が、信仰にはまるには、大変な心の葛藤が生まれるのであり、爽やかで晴々した気持ちになるためには、完全なマインドコントロールに行きつく必用があるのです。
そして、「盲信」=「思考停止」となるのでしょう。そして、何かと言えば「聖書」にどのように書かれているかのチェック、自分の行動の全ての責任は「神」と「聖書」のせいにするという、「意図しない無責任人生」を歩むことになるものと思います。
私と妻との問題は、勿論、JWXXさんが立ち入るべき問題ではありません。
○○さんやJWXXさんが、私と「エホバ信仰」について議論するようになったのは、エホバ信者の妻が、私の疑問に答えることができず、彼女に代わってエホバのことをよく分っている人に聞いてほしいということが原因となっています。「正しいものは正しい。」としか説明しかできず、彼女は困っているのです。エホバを信じるという妻が、エホバの教えの合理性に付いて分らないという矛盾に陥っているのです。
問題を解決して頂けるという保証があるなら、JWXXさんが、また、エホバが目的とする「愛」を期待して、JWXXさんに、私と妻の間の問題に立ち入ってもらいたいと思います。エホバが正しいという合理的根拠を確認するような議論ではなく、当然、期待ではなくお願いという形になります。なぜなら、私は、JWXXさんを「信仰」するからではなく、そうする理屈があるからです。
今回いただいた聖書に関する添付の資料については、まだ目を通していませんが、読めばきっと、ますます矛盾点が出てきて、疑問点が広がり、収拾がつかなくなるのではないでしょうか。
なぜなら、今まで参照いただいた聖書の記載は、全て、矛盾やこじつけばかりが目につくものであったからです。
ですから、まず、今までの私の質問について、もう一度はじめから一問一答形式で話をし、それをまず整理して、次の議論の前提に使用したいと思います。
疑問の答を出さないまま、次々新しい別の疑問が出るような議論の仕方は、慎みたいと思います。
それにしても:
① エホバを信じる目的は「愛」とのことですが、一体どのようにして、どのような「愛」をエホバの信者が実現できるのでしょうか。自分の宗教の教義順守を貫くことで、社会や家族に迷惑をかけることや、人の命までも左右することは、どのような見方をしても「愛」とはいえせんよね。
② その「愛」の実現は、いつですか。私たちが生きているうちに、少なくとも、私たちのひ孫世代までのうちでないと、意味がありませんよね。「自分が具に体験できない、神の支配する王国とやらがくるまでに。」、そう希望するのは、当たり前ではありませんか。
③ エホバを信じて、そのように望めば、「保証された期待」とやらで「愛」が期待に沿って実現されるというのですか。その裏付けは何ですか。また「聖書」ですか。
④ そもそも、確度の高い予測ができないし、勿論、体験できるわけもない遠い将来のことに紐付けて、信仰による期待は保証であるというようなに非合理的なこじつけをして、或いは、預言というような言葉を用いて、これを現在の生活信条のよりどころとするようなことのどこに合理性があるのでしょうか。
⑤ エホバを信じない人はどうなるというのでしょうか。
エホバの信者ではない、しかし、エホバが創造されたという圧倒的大多数の人々はどうなる
のでしょうか。
⑥ 私にとっては、アダムとエヴァの(「創り」)話など、決して人の苦しみの言い訳になり得ませんが、その話が事実であるという証拠はどこにあるのでしょうか。また、「聖書」ですか。
⑦ 「神」はロボットを「作」りたくなかった、だから「自由度」を与えて「人間」を「創」られた(言葉の用法をきちんと使い分けます。)、そして、「自由」を与えられた人間がその使い方による「結果」を自ら刈り取り、また、自分で考えて生きていくようにされた、というような不可解なことを、妻が言っていますが、どんな証拠があるのですか。また、「聖書」ですか。
⑧ 「自由度」を与えて、その「自由度」の使い方を誤り、その結果、苦しみが生まれた、言い合えれば、「神」は、「意図して」、「意図せず、」は別として、不完全なものを創り、それに「自由度」を与えて、神の意図せぬ結果となったということなのだから、その責任は「神」にあると言えませんか。もし、そういう「神」が存在するなら。
⑨ 「神」は、この「結果」に付いて、自分の「創造物」に自ら解決させるようにした、というような勝手な言い訳を、「エホバ信者」が「神」に与える根拠はどこにあるのですか。また、「聖書」ですか。
⑩ そのような、不可解な論理の言い訳をするのは、何の罪もない人が苦しむという現実と、「全知全能」と決めつけた「神」との間に生じる論理矛盾を回避しようとすることに目的があるのではないですか。
⑪ 「全知全能」「万物の創造主」たる「神」が「悪神サターン」と戦わねばならない、しかし、将来「神」が勝利して「神」の支配する王国ができる、という根拠は何ですか。また「聖書」ですか。
⑫ 「全知全能」の「神」なら、サターンと戦うまえから勝負は付いているのであり、戦う必要もないし、例え戦うにしても勝利するのに時間などかからないはずですよね。
⑬ このような、極めて単純な論理を認めずに、エホバ自らが、人の悪を正し、苦しみを取り除かない理由は、人が自らなすべきことを悟ることを目的とされてとか、エホバがその全知全能を持って、サターンを滅ぼせば、人は、自らを納める能力があると勘違いするからだと説明するために、学校の先生の例をあげているようですが、そんなこじつけを正常な人が認めると思いますか。
⑭ 先生と生徒の例は、身近な教育方法の一つとして、結果を体験させて反省を導き出す程度のもので、不幸と言えるものではありませんね。これと、人の一生に関わる苦しみという不幸との重さの違いはあまりにも大きく、と言うか全く無関係で、よくもまあこんな馬鹿げたまやかしの例えを挙げたと思いませんか。
「感情を理性で抑えるに至らない幼年の兄弟がいるとします。この兄弟が喧嘩を始めて、棒や石、刃物などを持ち出して、相手を攻撃しようとしだしたとします。それを見ていた親は、自分で何がいけなかったかを悟るように、兄弟が怪我をするのを黙って見ていました。それほど親の「愛」は深いのです。」というような例えをしたら、「なるほどそうだ。」「エホバの「愛」も親の「愛」と同じということがよく分かった。エホバはなんとすばらしいことか。」と納得しますか。
先生と生徒の例えは、人の誤認という弱さを突いて、教えの矛盾をごまかそうとために用いた悪質な手法であると思いませんか。
⑮ 何世代にもわたって、人が苦しんで、その結果、人が悟りを得て、最後にサターンが滅びて「神の王国」が来るというような、今必死で生きている人を、ないがしろや犠牲にまでするような説法が許されると思いますか。苦しんで死んでいった人は、「神の王国」が来るまでの犠牲者というような都合のよい言い訳が許されると思いますか。
⑯ 上記のような根本的な矛盾が起きるのは、「エホバ」を「全知全能」「万物の創造主」と決めつけたからではないですか。
⑰ そして、「創造論」が信仰の拠所、これに疑義をはさむと、「神」が変身(「退化」)してしまい、その全ての論理展開が崩壊するという(そんな宗教はいくつもありますが)のが、エホバ信仰ではないですか。
⑱ 「無」は「無」、「有」は「有」、これを「現実」として理解し、その「現実」こそ「神のなせる業」という考え方ができなのですか。「無」から「有」を創るとするから、無理が出るのではないですか。
⑲ 数少ない要素であっても、その順列組み合わせの種類は大きな数となる、要素が組み合わさったものが、組み合わさると、あっという間に極めて複雑なものになり、種類の数も膨大になる、この論理を生物に当てはめて、その無数の生成物は、お互いに影響しあいながら、その環境に適したものが生き残っていく、生成物はとくにプログラムなどされたものではなく、偶然の結合、分離、変異の結果であるという「進化論」は、「無」から「有」を生じるという考え方と相反しますね。
⑳ しかし、「創造」は「知」「感情」という「無」の領域、「進化」は「もの」や「作」という「有」の領域とすれば、「創造論」も「進化論」も、相反しないし、するわけもないのではないですか。
21 そうせずに、「創」と「作」をごちゃまぜにして「神」を「万物の創造主」としたいから、 必死で 「進化論」を排除するのではないですか。
22 自分の信仰する宗教の論理の崩壊は、自分の今までの人生の崩壊につながるものと、あなたは単に恐れているだけではないですか。
23 現実を認めないことで、さわやかな気分になるというのは、恍惚を得るために麻薬を使うのと同じではありませんか。
24 エホバの気持ちを想像するのは勝手ですが、エホバがこう言ったとか、こう考えている、こうしたいと思っている、というような決めつけを、物事の対処の拠所にするは、思考停止、責任回避以外の何物でもないと思いませんか。(今までに、妻、○○さん、JWXXさんと議論した堂々巡りの骨子に付いて、フローチャートにしたものを添付します。)
神の気持ちを想像する→人が生来持つ良心の働き→神によって与えられたもの→自分の中に神の意図や心が存在する→「人の心」=「神の心」と、考えるべきとは思いませんか。しかし、「神の心」=「エホバの心」というような必然性は何ら存在しません。どんな神であってもよいのです。心の働きは人知の及ばないものなのですから。それを神と呼ぶのですから。
エホバ宗教は、宗教自体がその犯した罪についてまずそれを認めて悔い改めるようにすべきと思いますよ。そして信者は、宗教の呪縛から目覚めて、宗教の恍惚を捨てて、理性を取り戻すべきだと思いますよ。
私とJWXXさんの間のやり取りの全てを信者のみなさんに公開して、その意見を聞いてもらえればありがたいです。コピーという方法でも、インターネットでもかまいません。
JWXXさんと私が、それぞれの独りよがりの考え方に陥らないように。
エホバが、セクト宗教とならないために。
以上/matarcult