脊髄損傷のせいで両足が自由に動かず、痛さを我慢して家の中でも押し車を使っている母、90歳。
「トイレが遠い。」と口癖のように言う。
足の痛い母にとってはトイレにいくことさえ大変だということは誰にでも頭では理解できるだろう。
実家はお寺なので住むスペースにも座敷がいくつもあり、確かに普通の家に比べたら、物理的には”遠い”のかもしれない。
でもその母の言葉にいつも不快を感じている自分がいた。
それは、遠くにあるトイレがまるで悪者のようなニュアンスを醸し出しているから。
えっ?トイレが近くになくてトイレが悪いの?この家の構造がいけない?設計した人が悪い?
言葉の奥に不満だらけの思いが詰め込まれているように感じる。
言っている本人はそこまで考えているわけではないかもしれない。
ただ、トイレが遠く感じることを表現した言葉に過ぎないと言えばそうだろう。
母:「トイレが遠い!」
私:「だから何?」
って何の情もなく返せれば全く悩まないで済むはず。
でももし「トイレが遠く感じるわ。」という言い方だったら、お母さん大変だなと同情する気持ちがするに違いない。
今までどうしても母を心から愛せない理由がこの「トイレが遠い。」という言い方に集結されていたことにやっと気づいた。
不満をそうでないように装った言い方で相手には分かるだろうと言わんばかりに何かを要求する威圧感を持った言い方。
幼い時から厳しい母の顔色を窺って怒られるのが怖くていつも母の言う通りにしていた。
それが嫌で遠く海外にまで逃げてきた。
今は現役を引退して時間ができたので高齢の母の世話をする機会があってやっと気づいたこの感覚。
今更ながら先に気づいた側が許しの心で接する修行だと。
次からは「本当にうちのトイレって遠いね!」って言ってあげられる自分がいるような気が少しだけした。