増田禄郎 小史

生誕の地・阿倍野区北畠
『増田・その”うから”』にあるとおり、増田禄郎は昭和4年に阿倍野区北畠にあった「阿倍野二十五番屋敷」に生まれます。世帯主は祖父で天王寺村第7代村長の増田忠三郎。父・増田謙吉は忠三郎の長女・えつの入婿で、家業の大阪南煙草元売捌業を継ぐため、京都伏見・淀藩家老の一族として名高い今村家から養子として迎えられていました。
禄郎は、兄弟六男一女の末っ子で、文字通り男の6番目=六男です。長男に琢司、次男に忠次良と、継嗣らしい名前がつけられたあとは、三郎・史郎・五郎・禄郎と、字づらこそ忌み文字は避けているものの、名前は数字のまんま。三男以降は、いかにも命名を面倒くさがったかのように見えますが、それでも全員が大切に育てられた形跡があります。
禄郎は兄弟から「ロクちゃん」と呼ばれ、親族姻族全員からまんべんなく可愛がられたようで、わがままでヤンチャ坊主だった証拠がそこら中に残っています。 (「ロク」のアクセントは、"ク"にあります。アナウンサー用語でいえば『後高』です)
きっとどんなわがままを言っても「末っ子だから」と、父母はもちろん兄姉らからも、それを受け入れてもらっていたに違いありません。いわゆる”はしっこいヤツ”で、みなさん手を焼いたと聞きます。
ある日、兄たちが何かと手が掛かる禄郎を抜きにして、堺の浜寺海岸にこっそり海水浴に行こうと企だてたことがありました。
禄郎に気づかれぬようにみんなでそっと家を抜け出して砂浜に来てみたら、麦わら帽子をかぶった禄郎が浮き輪にお尻を入れ、波にプカプカ浮いているのを見つけたそうです。
さぞ、うんざりしたことでしょう。
浜寺海岸の姉親子と禄郎 太秦で映画制作を見学
禄郎が生まれる直前、世界大恐慌の煽りを受けて日本でも銀行の破綻が相次ぎ、増田家が全財産を預けていた第十五銀行も頭取が自殺、破産します。
当時増田家が維持していた煙草元売捌きビジネスのキャッシュフローが、「売り上げ金の銀行利子」だったため、預金がゼロになると、さまざまな支払いのためのキャッシュフローが焦げ付きます。そのため、増田忠三郎・謙吉親子は保有していた土地や家屋など不動産のほとんどを処分せざるを得なくなりました。
住んでいた家も処分しなければならなかったため、阿倍野二十五番屋敷から姻族が住む堺に一時期引っ越したあと、最後まで売らずに保有していた東住吉区平野大通(現在の杭全)の小さな屋敷に、一家全員で移り住むことになりました。
阿倍野二十五番屋敷の玄関 阿部王子神社の増田忠三郎玉垣
住吉中学校
大阪市立育和小学校を卒業した禄郎は、当時はレベルが高く入学が難しかった大阪府立住吉中学校(旧制)に進学します。住吉中学〜旧制大阪高校〜大阪大学・京都大学という、この地区の成績優秀者が進学する流れが既にあり、禄郎にかけられた増田一族の期待も大きかったでしょう。
また、”うから”にもある通り、増田家が保田家から分家して以来200年以上にわたって住んだ阿倍野二十五番屋敷や、増田家の氏神だった阿倍王子神社・安倍晴明神社のすぐ近くに住吉中学の校舎があることは、父母のみならず兄や姉にもうれしいことだったようです。
禄郎は、住吉中学校でサッカー部とグライダー部に所属していた、と同窓会(現大阪府立住吉高等学校)の連絡にありました。詳細は不明ですが、住吉から八尾の飛行場まで遠征して、エンジン付きのウインチで機体につけたロープをひっぱって離陸する、セカンダリーというタイプの骨組みだけのようなグライダーで、飛行訓練をしていたようです。
サッカー部ではハーフバックで、今でいう守備的ミッドフィールダーだったと聞きました。当時の写真が、このブログのプロフィールになっています。大仏に似た、来迎と予願の金剛印を両手で示した半跏不坐。14歳のこのとき、すでに身長は170センチを超えていたようで、この時代の男性としては大柄でした。もっとも、増田家の男兄弟は全員が180センチ前後の偉丈夫ばかりで、ただ一人の女性・節子も170センチ近くありました。近所では”バカでかい一族”と評判だったはずです。
禄郎の30歳時の身長は181センチでした。
海軍に志願
太平洋戦争が末期にさしかかり、各地の戦闘で日本軍が大打撃を受け続けた事実が噂で広がりはじめると、いよいよ日本の存亡が市民の密かな話題になり始めました。その最中の昭和19年、禄郎は入ったばかりの住吉中学を退学して、帝国海軍飛行予科練習生になることを決心します。
いわゆる予科練「甲飛」で、課程終了後は下士官として戦線に配備される予定でした。
志願の主たる動機は「皇国を守り一家を存続させる」にあったでしょうが、日本全体がファシズムにがんじがらめになっていた時代のことで、まともな神経だったとは考えられません。それでも、連合軍に国土が蹂躙され、日本国民がどこかの国に隷属することを避けるため、「日本という国家を後世に残したい」という、少年の純粋な決意があったことが推察されます。
禄郎が最晩年に記した『防人翁航海記』には、「我々日本人は当時オーム真理教信者のようだったかも知れぬ…」と、全体主義に感化されていた自分自身について、悔恨の言葉を記しています。
美保航空隊
予科練といえば、軍歌の歌詞にある霞ヶ浦での訓練が有名ですが、太平洋戦争末期には全員がそうだったわけではなかったようで、『防人翁航海記』には、海軍に入隊後の禄郎が、三重の航空隊で基礎訓練を受けたあと、長野県野辺山で特攻要員としての教育を受けた…とあります。
彼は、特攻隊員だった頃の経緯や経験を、家族にすらついぞ漏らしたことがなく、ひょっとすると多数が目にするであろう文章にしていたことは驚きです。航空隊で運命を共にした仲間と過ごす平和な時間の中で、過酷だった思い出が思わず溢れ出たのかも知れません。
その後、特攻機「秋水」の搭乗員として出撃命令を待つため、増田禄郎は鳥取・島根の県境にあった美保航空隊に配属されます。美保ではゼロ戦52型に搭乗していた…と家族には告げてました。訓練の詳細な内容は口にしませんでしたが、敵機の背後に回り、高い運動性能でしつこく追尾することがゼロ戦の特技だったので、これを学ばされたでしょう。
しかし、「秋水」は上昇しながら敵機を追うため、それまでにない特殊な飛行技術も、あわせて訓練しなければならなかったはずです。この時期の行動や訓練内容については、ついに最後まで、禄郎は何も語りませんでした。
「秋水」は神風特別攻撃隊の中でも最終期にあたる昭和20年に計画された「ロケットエンジン」を持つ局地戦闘機です。当初はB29を迎撃するための戦闘機として設計されましたが、飛行時間が4分と短かったため、体当たり攻撃を目的とする特攻機に開発の最終段階で変更されました。機体の先端には600キロ爆弾が取り付けられ、着陸用の車輪さえありません。飛び立ったあとは「敵機に体当たりして爆死する」ことが必至かつ必然だったわけです。狂気の沙汰どころではありません。
禄郎を含め、指名された特攻隊員は、「秋水」搭乗員となった時点で、戦死を宣告されたも同然でした。
このあたりの心境については、遺稿の中では詳細に描かれてはいません。描ける神経を持つ人も、おそらく多くはいないでしょう。
戦争がいかに愚かなものであるか、いかに人の心を破壊するかを後世に伝えるため、禄郎はこれらの文章を書いたように思われてなりません。
終戦〜帰郷
禄郎が、どこでどのように玉音放送を聞き、どのように除隊したのか、回想録にもその他の資料にも記述がなく、彼が昭和20年8月末に平野の家にひょっこり姿を見せたことしかわかっていません。家族にも言いたがりませんでした。
平時ならば、直ちに復学して学業を修めるべき年格好です。今なら高校2年生の16歳ですから。
しかし、死を目前の運命として心身ともに軍に全身全霊を委ねた若者が、突然「それ、もう必要なくなった」と上官から言われ、あまつさえ”特攻隊にいた”という経歴だけで、世間からヤクザもののように扱われた時代背景を考えると、帰郷した禄郎がほぼ放心状態に近かったであろうことは、容易に推察できます。
彼の文章によれば、家族の助言に従って医科大学の予科を受験したり、姉の嫁ぎ先で農作業を手伝いながら本を読み漁ったり、鬱勃とした十代後半を過ごしたことが伺えます。
しかし、禄郎の将来を決定づけるような出来事は、なかなか現れませんでした。
住吉中学時代から、彼は自然科学系よりも社会科学系の科目に傾倒していた模様で、特に国語教師だった詩人の伊東静雄氏に深い傾斜があったことが、散文の内容から読みとれます。心の拠りどころを探していたようです。
長兄琢司の飲食店経営を手伝ったり、次兄忠次良と貿易会社を計画したり。
数年の紆余曲折ののちに、禄郎は茨木市富田にあった「双龍ミシン製造」に職を得ます。職種は営業で、当時の日本の機械製造業の多くがそうだったように、欧米への輸出が主な仕事でした。
結婚
このころ、禄郎は平野大通の実家近くに住んでいた池田敏子を見初め、結婚しました。
禄郎が25歳、敏子は23歳。どうやら近隣の話題になるほど、禄郎はストーカーよろしく敏子の実家近くをうろついていたとのことです。よほど惚れ込んでいたと見えます。
増田家がしっかりした背景を持つ立派な一族であることを確かめた敏子の父・池田北鳥は、二人の結婚を許しました。
禄郎・敏子は、増田家の保有不動産だった長屋に居を構え、新婚生活をスタートします。平野大通にほど近い平野西之町。家賃がタダですから、収入が厳しい共働き夫婦にはありがたかったでしょう。翌昭和30年には長男・隆一が誕生します。
「双龍ミシン」の最大の取引先は、アメリカの通信販売最大手「シアーズ・ローバック社」でした。禄郎は、得意だった英語を駆使して、シアーズとの売買交渉を進め、当時としては大きな売り上げを得ました。シカゴにあるシアーズ本社にも出張して、売買交渉を成功させています。為替レート1ドル360円が固定相場だった時代に、業務での海外渡航を経験した日本人はそう多くなかったはずです。
親しくなったシアーズの輸入担当部長が、訪日した際に禄郎の自宅に来たことがありました。
「あなたの父親は、アメリカでは"イバラキタヌキ"と呼ばれているんだよ」
"相手を騙すのが上手い人を日本語でどういうんだい?"と誰かに聞いたところ、その返事が"タヌキ"だったことから、シアーズ社の方々は、禄郎をこう名付けたそうです。交渉上手と巧みな話術で、交際があった何人かのアメリカ人は、禄郎"=Rocky Masuda"にきりきり舞いさせられ、煙に巻かれることが多かったようです。
敏子との共働きで一人息子を育てながら貯蓄を重ね、平野の自宅から茨木の双龍ミシンへの片道1時間半の通勤を20年近く続けた禄郎は、昭和45年に京都府乙訓郡長岡町の新築マンションを購入しました。
60平米余りの3LDK。立派な持ち家です。”城を構えた”、と感慨深いものがあったに違いありません。
孔子の言葉”三十にして立つ”から10年遅れではありますが、"40にして立つ"思いだったでしょう。
転職
昭和48年、日本の輸出産業が頭打ちとなっていたころ、「双龍ミシン」はキャッシュフローのトラブルから、経営陣の責任が問われる事態となります。会社を存続させるためには、誰かが引責する必要があり、禄郎はみずからその汚れ役を引き受けました。
40歳台半ばで失業者となった禄郎は、転職先を探さねばなりませんでした。
幸いなことに、まったく同じミシン製造で、アメリカではなくヨーロッパ・アフリカを主な取引先にしていた「宝生ミシン」が、禄郎のキャリアに興味を示し、ハイレベルでの採用を申し出てくれました。失業者から「取締役営業部長」となった禄郎は、勇んで東大阪の放出にあった宝生ミシンに勤め始めました。
長岡天神に住み始めて、ようやく「通勤片道1時間半」が「車中15分」になったのもつかの間の3年足らず。またもや「通勤片道1時間半」に逆戻り。
それでも「あなたを必要としている」と相手から望まれた職場は、彼にとって喜び以外の何ものでもなかったに違いありません。
65歳となった平成6年。禄郎は宝生ミシンを退職し、悠々自適のリタイア生活となりました。
最晩年
平成天皇が退位し、新天皇即位のさまざまな儀式が始まろうとするころ、禄郎は歩行失調が目立つようになりました。まっすぐ歩くのが難しかったり、立ち上がり直後にふらついたりします。
180センチ以上あった体格を、下半身の筋肉が支えられなくなってきたのです。
趣味のゴルフでエイジシュートを何度も記録した人物とは思えない、急速な衰弱でした。
体幹の筋肉は強さを保つことが難しく、特に高齢になると筋力トレーニングそのものが困難になります。
令和元年4月、禄郎は買い物に出かけた路上で転倒し、救急病院に搬送されました。運ばれた病院で精密検査したところ、医師は右側頭部が骨折しているだけでなく、頭蓋内の左側に大きな血腫があるのを見つけます。血腫の大きさから見て、昨日今日にできたものでないことは明らかでした。
つまり禄郎はかなり前に、転倒するか何かの原因で頭の左側を強く打ち、頭蓋内に血の塊が出来たために、右半身に運動機能障害を招いた結果、歩行に失調を生じていたのではないか…と推測できました。
1ヶ月足らずで血腫も消え、退院して自宅に戻った禄郎は、5月末のある夜、台所で食器を洗っている最中に倒れ、起き上がれなくなります。驚いた敏子が息子・隆一に電話しました。
「私、パパを持ち上げられへん、どないしょう」
その最中も、禄郎は床に横たわったまま、大きな声で喚いています。
「大丈夫や。ちょっと時間をかけたら起きられる!」
これまでにも、部屋の中で転倒しては5分ほどかけて自分で起き上がったことが何度かあったため、敏子と隆一は”このまま様子を見よう”となりました。
ところが翌朝、見守りのために設置してあったウェブカメラをモニターした隆一は、同じ場所に同じ姿勢で倒れたままの禄郎を見つけて仰天しました。
ケア・マネージャーに電話をして、ヘルパーを手配します。
2時間ほどのちに現場に着いたヘルパーは、禄郎が吐瀉していることに気づき、直ちに救急車を呼びました。
この日から、禄郎は介助なしではベッドから降りることも出来ない身体となってしまいます。
診断は「横紋筋融解症」。一般には「クラッシュ・シンドローム」の名で知られます。地震で倒壊した家の下敷きになった人などに、顕著におこる症状です。
人間の筋肉は、同じ姿勢のまま外側から強い圧力を長時間受け続けると、壊死してしまいます。圧力から解放されると同時に、壊死した筋肉が分解吸収されはじめ、血液中に分解で生じる毒素が大量に出て、多くの場合、腎臓に深刻なダメージを与えます。
禄郎は、腎臓への致命的ダメージはどうにか免れたものの、失った筋肉量と毒素による認知症状の亢進には、厳しいものがありました。
半年近い闘病とリハビリ病院や介護施設への二度の転院を経て、最後の場所となった京都九条病院4階の一室で、禄郎は二日ほどの昏睡の後、妻・敏子と長男・隆一に看取られながら息を引き取ります。
令和元年(2019年)12月29日午前5時。
卒寿まであと1か月足らずでした。




