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masterik - 新しい朝が来た!(仮)

ブログの再会。

と、いうか再出発。

タイトルはまだ考えついてないから、思いつき?!

インターネットの実名匿名論争が毎度の光景と繰り広げられているみたいだが、マスメディアにおける実名匿名論争もクローズアップされている。

実名出版差し止め13日に審尋 仮処分申請で広島地裁


 山口県光市母子殺害事件の被告の元少年(28)=死刑判決を受け上告中=を実名で記した単行本をめぐり、元少年側が出版差し止めを求めた仮処分申請で広島地裁は8日までに、第1回審尋を13日に開くことを決めた。


 出版元のインシデンツ代表の寺沢有さんが明らかにした。寺沢さんは「8日に通知が届いた。行こうと思うが、急なので弁護士と対応を相談する」としている。本は「A(実名)君を殺して何になる」で、著者は大学職員増田美智子さん。既に書店で販売されている。


 元少年側は「実名表記に同意せず、中止を求めたのに出版を強行した」と主張。増田さん側は「実名の了解は得ていた。事前に原稿を見せる約束はしていない」と反論している。

 弁護団内の諍いや外野まで巻き込んでクローズアップされた殺人事件の加害者の実名を書籍のタイトルとしてルポが店頭に並ぶと報道があった。著者は本人確認を取った上での決定であり、弁護団による事前検閲及び差し止め請求は報道の自由の侵害だとしている。

 この報道に関して違和感を感じたことを書く。

報道の自由に関して



 報道の自由は、憲法で保障されている表現の自由の一部分として取り扱われているが、この自由そのものが法的に認められているわけではない。報道の自由が問題になるのは、公的機関に内在する問題を扱うにあたり公権力の介入により報道の妨害・排除されることに対抗する手段としてこの概念が用いられる。だが、一方でマスコミは第4の権力と言われるようにその影響度の大きさから自らも権力側に回ることがある。
 今回のケースでは著者がルポの説得性を増すために書籍タイトルに事件の被告人の実名を冠したことに対し、被告側弁護団が高等裁判所における死刑判決を不服として上告しており係争中の案件であることから差し止め請求を行ったと思われる。弁護団の差し止め請求に対して出版を実行するために報道の自由を持ち出すことが適当なのかということが疑問にあった。
 出版社側が報道の自由を訴えた相手は少年側弁護団であり公権力を有しているわけでもなく弁護団の主張がそのまま表現の自由の派生権利である知る権利を侵しているとは考えにくい。事件の概要は報道機関等を通じて広く知られており、少年の実名が公表されないからといって読者が不利益を被るわけではない。故に報道の自由の侵害を弁護団の請求に対して投げかけるのは難しいのではないかと思う。

感想



 今、出版業界は冬の時代にあり、話題性のない活字媒体はとても厳しい状況にある。新聞販売代理店の購読数以上の刷数を買い取らせ水増ししていることが明るみに出て、広告代理店のクライアントに対する説明が問われることがあったりと情報に対する値段がデフレ傾向にある。その中で生き残っていくことは厳しい。

 ゆえに今回の出版社がとった態度は必死に部数を伸ばし少しでも売り上げを伸ばそうという意図があるのは理解できる。しかし、弁護団に対してや自社内でのコミュニケーションの不足が係争中のタイミングの悪い時点での出版という形になってしまったのは、やはりまずかったとように思う。

日本的な考えと呼ばれているものが、伝統というよりむしろ政策・制度に依存しているのではないかという疑問。

空気を読めって言葉の違和感。

サイレント・マジョリティという言葉がある。誰も口には出さないけど、自分の置かれている状況から雰囲気を察知して、自分がかかわる人と感覚を共有しているのだろうなということが内面化して、そういった意識の集団化が引き起こす世論形成とでもいうのだろうか。

 集団なら多かれ少なかれ一定の括りがある以上はどこかに向かっているあるいは何かを思っていることが共有されているのは当然のこと。だが、日々、接点のない人たちとの共同作業である政治は、はっきりとした根拠がない場合でも、あの人がこういったとか、この人が反対しているとか、もっとぼやけてみんなこうしているとかいった具合に、自分でははっきりとした意見も持っていなくても自分のポジションを決めて行く。
 こうした意識の発露はデマや噂の域。だれかが自分のポジショニングのために言ったのだろうが、それが伝言ゲームであっちこっちから聞こえてくる。もとは一箇所から出てきたのが、いろいろなバリエーションで耳元に入ってくる。中間地点の伝言者はただちょっとだけ不正確にスルーしてるだけだから、最初に発話した以外の意識がのることはあまりない。この場合、聞き手はそれってつまりこういうことじゃない、ということを誰にも確認できないまま結論づけている。で、あとになって、これってこういうことなんだとかいうと周りがそうそう肯くような感じになり、一人一人は何となく思っていたのだけど、他の人のがだいたいこんなことを思っていたんだということがわかり、自分もなんとなくこんなことだったって安心できる。でも、はっきりしたことはあやふやでわからないんだけどね。
 
これが集団の性質が個人に働きかける方向性。で、逆として個人から集団への働きかけの方向に関して。

自分の意見を正確にいうことは違う意見が集団の中で大勢になったときに、翻意することをしにくくなる。言った言わないのせいで自分の意見の一つとしていったものであったが、それが人格そのものからできてきた本音としてと捉えられ、後に意見を変えようにも否定されてしまうので意見のすりあわせをしてお互いが近づく努力をしようにも難しいので、意見の集約にはロジックではなく相手との間合いを探りあいながら自分のものでないけど、相手のものでもないみんなの意見が形成されていく。ただ、その方法は時間がかかりすぎるので、それを省くために前例という仕組みを使って、今まではこうだったんだみたいな空気を作って意識の形成を図る。そして、その意見の正しさはロジックの正しさではなくて文脈の正しさにある。大事なのは誰も責任を負わなくていい意見の形成にある。

と、こんな具合なわけである。もちろん、個人と集団の関係はどの国であろうとあるものであるし、個人が大衆に迎合することもあるし、逆に集団が個人の意見の集約であることに変わりない。しかし、個人が意見をもち、個人の意見の表出をもって、個人の利益の歩み寄りを進めて、最終的な意見の集成を行うのが比較的弱いと感じる。言葉身近に言えば、民主主義の形にはいろいろなバージョンがあると思うが、個人がお互いの利益の折り合いを調整することによって成り立つ民主主義でなくて、みんなの意見に自分の立ち位置を合わせて集団の意思が決定される度合いが高いのだろうと思う。

で、このことは日本社会の評論に文化論に散見される日本特異論。だからこそ日本はすごいんだぞっていう自分たちからみた優越感、あるいはあんたたちははじっこの国という外国人の優越感がでるところで、これが日本の文化であり伝統の中から生まれた日本の特徴なんだよという意見がある。
でも、本当にそうなんだろうかというのが僕の疑問です。たしかに集団に迎合しやすい弱い個人がいてっていうの肯けるのだけど、それが文化や伝統に依拠しているとは思えないのです。文化や伝統は長い歴史の経緯の中で形成されてきた倫理や慣習のことだが、ここで問題にする大衆迎合文化は実は制度に依存するところであり、明文化された仕組みの上に成り立っていて、もし仕組みを規定しているルールが変更になったらなくなるだろうな。だが、ルール変更には、その大衆迎合的な作用が働いてなかなか仕組みを変更するような意見の集成はできないだろうなというのが僕の見方だ。

たとえば、選挙制度なんていい例なんだろうな。行政の単位として区切られた地域の中から代表を出して、その代表たちの中の一番多いグループの代表を国の代表とするのが今の制度だ。ある考えを持っている人がいて、その意見を代表者に任せようとするわけだ。で、さらに代表者たちのグループの中でさらにグループを作り、その中の複数のリーダーの中でもっと自分たちの意見を調整して反映してくれる人を選ぶわけだ。もうほんとわけわからんのだけど。で、当然、こんな風に入れ子構造だから、代表者たちは自分(自分の意見ではなくなっている)を通すために何度も自分が壁にぶち当たらない道を歩いているうちに自分の立っている位置が思ったところとかけ離れていることになる。と、いうことは支持者からみたら原形がなくなっているわけで、何かをいう元気がなくなってしまうのである。小選挙区・比例区並存で与党内の代表議員による選挙で首相が選ばれる現状ではこうなってしまうのである。
それで、多数決でないところの意見を反映されにくいというのは、こういった人を選ぶ多数決の多数決の多数決をすることで意見を選ぶよりも人を選ぶことが優先されてしまい、本来は意見のほうが大事なのに人の方ばっかりみて、選ばれた人の向く方向しかみえなくなってしまう。要するに個人のもっている意見なんてのはちっぽけでどうせなら何も考えずに思考停止のほうが余計な徒労をしなくて済むと思ってしまう。
なんてことを考えているのは、社会の仕組みを変えるにはどんな方法があるのかななんて思っている。改革はよりうまくいくことを頭に入れているわけだが、劇的に仕組みを変えることが果たして可能なのかというところでつまづいているのです。上記で書いたように、本当はありもしないみんなの意見を内面化した集団の意見の形成は異論を弾く性質があり、ロジックでなく文脈を大切にすることから、仕組みそのものがまちがっていて、その認識を指摘し修正し、新しい制度を導入しようとしても、変更の度合いが大きければ大きいほど抵抗が大きいなというのがネックだなと思っている。
でも、手短なところはどこだってところを早く探さなければいけない。

そういえば、日本のブログって匿名が圧倒的。そして、名前を出して記事を書いている人はフリーランスとか経営者とか学生の立場の人で、大企業に所属している人とかをあまり見ないのはどういうことなのだろうかと思った。
特許の場合、自分の職務とまったく異なる分野で直接的に会社とは関係なければ個人の特許となる。それと同じように本業と関係ない記事を書けば営業秘密等でなければ全然大丈夫だろと思うがやはり縛りがきついのかなんて思ったりします。だいたいブログで仕事が受注できたなんてないんだから関係ないじゃんと思うのですがね、どうなんでしょ。
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また、今度は違うIQパズル。
どこまで、真実なのかわからない。

それに頭がいいか悪いかの判断って、これだけではわからんよな。
ここで使われる論理力って、論理ツールが少なくて、かつ長い論理を必要としない。

でも、頭のいい人はたいていそうなのだが、解きほぐすのが大変な事柄をいとも簡単にほどいてしまう能力がある。
それに記憶力がとてもいい。

ほんと、あこがれるのだけれど、ぼくなんか論理力が足りなくて、途中で脳みそがぼんやりとしてきて、いつのまにか行き先を失っている。

どうしたものかの。

よく、頭の中を見てみたいという台詞。
そのうち実現するのだろうが、ほんとそんな気持ち。

遺伝的には神経線維の個体差はないのだから、きっと効率的な方法があるのだろう。

とはいえ、そんなことを知ったところで、脳みその働きはわかるかもしれないが、頭のよさがわかるわけでもなく、さらには、わかったところで自分がどうにかできるわけでもないだろうから、単なるトリビアになるだけなんだろう。