日々の忙しさと、楽しいイベントに忙殺され、ブログを書くことがおろそかになってしまい、どうにもいけないと悶々としていた日々でした。

惰眠をむさぼるほど私たちの世代は余裕が無く、まして私は無休の個人事業主であり、垣間を見て、残していかなければ、自らの語りたいというフラストレーションは実は解消されないという状態でした。

 

さて。

 

本日は大分日数も経過してしまいましたが、前回のギャンブルに関連して「ツキ」というものに焦点を当ててみようという次第です。

 

日頃の生活の中で運の要素、「ツイている」「ツイていない」と感じる局面はギャンブラーの方が多いということを前回述べてみました。

 

今回は体感の頻度は置いておき、この「ツキ」というものの本質に対する私なりの解釈を述べていこうと思います。

 

「ツイている」状態や体験、「ツイていない」状態や体験を感じる局面は人それぞれ多分にあると思いますが、感じた際に掘り下げて考えたことはありますか。

 

例えば、車を運転している際に信号がいくつも青でスムーズにぬけられる局面、いつもは混雑している通勤の電車が、なぜか空いていて座ることができた。

 

一方、普段なら見過ごすはずのないクライアントからのメールを見過ごすことで、受注に間に合わず、社内の調整が失敗し、クライアントに迷惑をかける等。

 

ギャンブラーで無くとも、幸運、不運を感じる局面はあると考えます。

 

ただ、そこで思考を止めずに、「これは本当は何に起因する状況だろう」と掘り下げてみることをお勧めします。

 

その局面は自らの行動が招いた状態であったり、単純な偶然の産物であることが見えてくるでしょう。

そんな状態を理解したうえで、境遇を楽しむのは良いのですが、本来であれば起因がある物事、偶然の産物をあたかも天より与えられた境遇であると盲目的に認識する状態は不健全であるような気がします。

 

これは特に「不運である」と認識する状態において、冷静に分析することが大事であると、強く伝えたいです。

 

幸運な状態は、より幸運な状況を呼び込み、逆は然り、と私は考えます。

それは自分の状態がそのモードに入り込んでいるためにそれを呼び込んでいると考えます。

 

幸運な状態においては盲目的に認識しても、結果は良き状態になるわけですから、途中の自己分析は余り必要ないかもしれません。

(実際は幸運の状態も自己分析しておくことで再現可能な状況を作り出しやすいため、必ずしもそうではないと考えますが…)

 

不運な状態では、一つ一つの事象を冷静に見返し、「いや、これは単なる偶然」「これは自分の所為で招いた状態」「これは第三者の責任」ときちんと仕分けると、本当に不運な状態ではなくなるための一歩になると考えます。

 

自分の精神状態が、自身の行動や引いては周囲の環境に少なからず影響を与えることがあるとよく理解し、早期に不運な状態を脱する精神状態を作りだすことができるのではないでしょうか。

 

最も、自らの改善でどうにもならない境遇はこの世界にはいくらでもありますから、比較的犯罪に巻き込まれづらい日本においてはそうかもしれませんが、すべての人間がこれに当てはまる、と強調するつもりはありません。

 

これも麻雀から学んだことですが、死力を尽くし、万全を期しても敗北を喫する局面はあります。

生死に関わる状態で無ければ、「次の局」「次の半荘」「また次回」と切り替えていけば良いと感じます。

ただし、人生の中では絶対に落とせない局、半荘がありますから、このタイミングで自分にいかにツキを呼び込むかというのが、大事だと考えます。

 

ツキというのは日常茶飯事的に感じる事象ほど、自分の行動や精神状態から反映されるものだと、私は考えます。

常に良いツキの状態に維持しておくためには、日頃から冷静沈着に行動し、物事をポジティブにもネガティブにもとらえすぎないということが大事ではないでしょうか。

 

私が過去に投資に関連する書籍を読んでいた際に、読むべき書籍として推薦されていた中に次の書籍がありました。

 

ツキの法則

 

ギャンブルを冷静な視点で解釈しており、ツキという概念を完全に否定せずに整理しています。

確率や境遇を整理することで、実際には存在しない「ツキ」というものを制御はできずとも、認識できるようになるかもしれません。

 

ただ、やはり生きていく中で「ツイている」「ツイていない」と感じることを私自身も多分にあります。

私が上で述べた内容も話半分でとらえ、実体のない天から与えられる「ツキ」というものが存在するという前提の思考も半分、持っておくと、ユニークな人生かもしれません。

 

最後、一つだけ強調しておきたいことは、上で述べた整理をしても、説明がつかないほど幸運な人間、不幸な人間は世の中に間違いなく存在します。自分の比較して周囲の知人を見てもそういうことがあるでしょう。

 

これも前述の書籍からの派生した思考で説明がつきます。

つまり、人間の人生は確率が収束するほど長寿ではないからです。

 

確率の揺らぎに個人差が生じるのは間違いなくあり得ます。

しかし、そこで腐らずに、多少の技術介入を持って、自分の人生を幸福にするための思考を取り入れてはどうでしょうか、というのが本日の話でした。