息長足姫(おきながたらしひめ 神功皇后)を語るとき、母が【新羅王子 天日矛(アメノヒボコ)の末裔】である事をよく誇張して書かれます。

で、それをもって神功皇后は新羅人などとする説もありますので、少しくわしく見ていきましょう。


『日本書紀』垂仁天皇紀に、天日矛の系譜が書かれています(古事記では応神天皇紀)。


1★:天日矛(アメノヒボコ)


2子:多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)


3孫:多遅摩斐泥(タヂマヒネ)

4曾孫:多遅摩比那良岐(タジマヒナラキ)  ※ひまご 

5玄孫:                       ※やしゃご 

遅麻毛理(タヂマモリ)  
多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)★
清日子(キヨヒコ)

6来(耳)孫:葛城高顙媛

7昆(晜)孫:息長足姫(神功皇后)

8仍(礽)孫:応神天皇


現在の民法においては、本人を0、子を1として数え直系であれば6親等以内を親族としますが、通常は、本人が1世、子2世、孫3世、曾孫4世、玄孫5世・・ですので、『日本書紀』の系譜からすると、葛城高顙媛は6世孫らいそん。息長足姫は7世孫のこんそんです。


息長足姫から逆算すると、一代平均17~18年として、天日矛は約100年余り前の先祖です。私は神功皇后の三韓遠征を391年と考えていますので、


職貢図と広開土王碑


300年頃の事でしょうか?


ところが、300年頃だとすると、新羅はまだありませんでした。新羅の建国は356年とされています。


ただ、朝鮮半島の史書『三国史記』の新羅本紀は、「辰韓斯蘆(シロ)」の時代から含めて、一貫した新羅の歴史としていますので、そのように考えれば理解できます。



辰韓は魏志東夷伝辰韓伝登場します。


辰韓在馬韓之東其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國馬韓割其東界地與之


「辰韓は馬韓の東にある。その古老は、代々伝えて、自ら次のように言う。いにしえの逃亡者で、秦の労役を避けて韓国にたどり着き、馬韓がその東の外れの土地を割いて与えたのだと。」



始有六國稍分為十二國弁辰亦十二國又有小別邑各有渠帥大者名臣智其次有險側次有樊次有殺奚次有邑借


「始めは六国あり、じょじょに分かれて十二国になった。弁辰もまた十二国である。また小さな集落がある。それぞれ統率者がいて、有力な者は臣智とよばれる。その次に險側(ケンショク)があり、次に樊(ハンカイ)があり、次に殺奚(サツケイ)があり、次に邑借がある。」



有城柵其言語不與馬韓同名國為邦弓為弧賊為寇行酒為行觴相呼皆為徒有似秦人非但燕齊之名物也名楽浪人為阿殘東方人名我為阿謂楽浪人本其残余人今有名之為秦韓者


「城柵がある。その言語は馬韓と同じではない。国(コク)を邦(ハウ)となし、弓(キュウ)を弧(コ)となし、賊(ソク)を寇(コウ)となし、行酒(カウシウ)を行觴(カウシャウ)となし、お互いを呼ぶのは、みな、徒(ト)とする。秦人に似たところがあり、単に(距離的に近い)燕や斉の言葉が伝わったというものではない。楽浪人を阿残と呼ぶ。東方の人は自分のことを阿(ア)という。楽浪人は、元は自分たちと同じで、楽浪に残った人だという意味である。今、この国を秦韓とする者もいる。」


土地肥美冝種五穀及稲暁蠶桑作布乗駕牛馬



「土地はよく肥えて五穀や稲を種まくのに適している。養蚕を知っていてカトリ絹の布を作る。牛や馬に乗ったり車を引かせたりする。」

國出鐵韓倭皆従取之諸市買皆用鐵如中国用銭又以供給二郡



「国には鉄が出て、韓、、倭がみな、従ってこれを取っている。諸市ではみな中国が銭を用いるように、鉄を用いて買っている。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」



と記されています。辰韓の一国であった斯蘆国が、後に新羅に発展します。



また、『三国史記』新羅本紀には、


第4代王 脱解尼師今多婆那国で生まれた。その国は倭国の東北千里にある。始祖・赫居世の39年、阿珍浦の海岸にある箱が流れ着いたが、その中に居たのが脱解であったと記されています。


多婆那国とはどこかというのに、これまた諸説ありますが、但馬国丹波国であったのではないかと言われています。そうなると、第4代新羅王は倭人で、その後裔の新羅王子 天日矛の遠祖も倭人と言えなくもありません。



『記紀』が伝える天日矛ですが、


「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。


この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。




天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。


女=アカルヒメは、祖国へ帰るというのですから、倭人ということになります。





以上、『記紀』やその他書を要約すると、


息長足姫(神功皇后)は、開化天皇の玄孫 息長宿禰王と、葛城高顙媛の子として生まれ、開化天皇の来(耳)孫にあたる皇統です。母の6世前は、天日矛という斯蘆(シロ)国の王子と伝えられています。


斯蘆国とは、辰韓の一国で、元は秦の始皇帝の時代、万里の長城建設に駆り出された者が、その労役を避けて韓国に逃れた人々で、自分たちの事を秦韓と呼んでいます。


辰韓は鉄を産出し、魏志東夷伝に記される以前から、倭とも交易があります。


また、第4代脱解王は、倭人で多婆那国(但馬・丹波)生まれと三国史記に書かれています。


『記紀』の天日矛逸話は、嫁に逃げられて追いかけて日本に来たという少々情けない話しです。



いろいろ見てきましたが、



私の結論としては、




おそらく、神功皇后からすれば、母方の7世前の祖先のことなど、ほとんど関係無なかったかと思います。


この当時、妃にはなれても、天皇の皇后になるには、皇統出身か、有力氏族の娘で、強力な後ろ盾がなければなれません。そういう意味で、母:葛城高顙媛の名前に改めて注目してみたいと思います。


見て頂くとわかる通り、それまでの系譜とは異質な名前です。


この当時の(原)葛城氏は、剣根命を祖とする葛城国造の後裔で、尾張氏の祖が通婚を重ねて、天皇にも妃を輩出してきた有力氏族です。尾張氏の系譜には 「葛城○○姫」という名が多数見られます。


葛城高顙媛 ①



三韓遠征後、尾張氏系の者には、多くのの論功行賞がありました。


そんなこんなを考えますと、別に『記紀』に書かれている通り天日矛の7世孫でもいいのですが、

おそらくここは作為があって、神功皇后の三韓征伐に絡める(三韓遠征の正当化?)のために、母:葛城高顙媛の系譜をいじって、天日矛の伝承を繋げあわせたのかもしれないと考えます。