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人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。


あなたが善を行うと、利己的な目的で、それをしたと言われるでしょう。気にする事なく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にする事なく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にする事なく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にする事なく正直で、誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にする事なく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にする事なく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与えなさい。蹴り返されるかもしれません。でも、気にする事なく、最良のものを与え続けなさい。1979年ノーベル平和賞
Madonna



MTV VIDEO MUSIC AWARDS 2009|Madonna Pays Tribute to Michael Jackson


マイケル・ジャクソンは1958年8月に誕生しました。私もです。
マイケル・ジャクソンは中西部の郊外で育ちました。私もです。
マイケル・ジャクソンには8人の兄弟姉妹がいます。私も。 
マイケル・ジャクソンは6歳でスーパースターになり、世界で最も愛された子供でした。
私は6歳で母を亡くしました。彼の方が貧乏くじを引いてしまったのだと思います。
私には母親が、彼には子供時代がなく人は手に入らないものに、執着するものです。
幼少期の私は母親像を追い求め、時々はうまくいくことも。
しかし世界中の注目を浴び、どうやって子供時代を再現すればよいのでしょう?
間違いなくマイケル・ジャクソンは、歴史上最も偉大な才能です。

早熟な8歳の彼の歌声に胸が締めつけられるような思いをしたり
フレッド・アステアの優雅さとモハメド・アリのパンチ力を持ち
彼の音楽には、幾重にも重なる魔法のよう踊りたくなるだけでなく大空を舞い
どんな夢でもかなえられる気になります。
それがヒーローの役目、マイケル・ジャクソンはヒーローでした。

世界中のスタジアムでパフォーマンスをして、何億万枚も売り上げ、首相や大統領と食事をして
女の子も男の子もみんな彼に夢中になり、誰もがそのダンスに憧れ別世界の人に思えましたが、
彼も一人の人間。例に漏れず、シャイで不安定でした。

親しくはなかったものの1991年に彼を知ろうと思い、食事に誘ったのです。
『支払いも運転も私と二人きりで』と私は言いました。彼は警護も連れず一人で家に来ました。
レストランには私の車で。
サングラス姿の彼に言いました。
『マイケル、なんだかリムジンと話しているようだわ。サングラスをはずして目が見えるようにして』
彼は少し考えると、窓からサングラスを投げウインクして言いました。
『見える?これでいい?』 彼の繊細さと魅力が見えた瞬間でした。
私は彼にフライドポテトを食べさせ、ワインを飲ませ、悪い言葉を言わせました。
彼がしないようにしてきたことを。
その後は自宅で映画鑑賞しました。子供のようにソファに座り、映画の途中で、彼は私の手を握りました。
恋人ではなく、友達を求める手でした。私は喜んで応えました。
そのときの彼は、スーパースターではなく、一人の人間でした。
何度か出かけましたが、その後は連絡が途絶え、それから魔女狩りが始まったのです。

マイケルへの批判が次々に出てきました。彼の痛みが分かります。
世界中が敵になったようなあの苦しみ。
自身の弁護すらできない無力さ。
群集の怒号にかき消され、自分の声は届かないと思い知るのです。
でも私には子供時代があり、過ちを犯しても注目を浴びることなくやり直せました。

マイケルの死を知ったのは、ツアー前のロンドンでした。彼も1週間後に公演を控えていた会場で。
あの時思ったことは、“私は彼を見捨ててしまった”。
私たちが彼を見捨てたのです。
かつて世界中を熱狂させた偉大な人物を、平気で見過ごしていたのです。
彼が家庭を築き、キャリアを再建しようとしているときに、世間は批判に徹していました。
みんなが彼を裏切った。
私は必死で彼を思い出そうと、インターネットにアクセスし、テレビやステージで踊って歌う彼の映像を観ました。
そして、"ああ、彼はなんてユニークで、オリジナルで、レアなの"と思いました。
彼のような人は二度と現れません。
彼はキングでした。
しかし人間でもありました。私たちと同じ人間です。
その真価に気づかぬまま失ってしまうことも。

最後はポジティブに締めましょう。
9歳と4歳の息子はマイケル・ジャクソンに夢中で、家では股間つかみやムーンウォークが大人気。
彼の才能を知った新世代の子供たちが、彼に再び命を吹き込んでいるようです。
マイケルは今どこにいても、きっと微笑んでいる。
マイケル・ジャクソンは人間であり、キングでした。

キング万歳!




どのような仕事に就いていようと、世界を自らの目で見ることで人生の成功がより確かなものとなる。子育てにも役立つし、教師、政治家、実業家、芸術家、ジャーナリスト、商人、そう、投資家にも必要なことなのである。

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できる限りこの世界の現実を見ることだ。
_____ジム・ロジャーズ


世渡りは上手いか?
ズルさを持っているか?
簡単に伝わっていると思っていないか?
他人を信用しすぎていないか?
他人に親切すぎてはいないか?
自己アピールはできているか?
外と同じくらい社内営業はできているか?
金に細かくセコセコできているか?
打算的でよそよそしくできているか?
その場限りの社交辞令はできているか?
十分説明しているか?
真面目すぎないか?
正直すぎないか?
損得を考えた交渉ができているか?
諦めが遅くないか?
地道に努力しすぎていないか?
きちんと手を抜いているか?
行動よりも発言に気に配っているか?
言い訳はできているか?
ちゃんと上司の顔色を伺いながら仕事をしているか?
嘘はつけているか?
パフォーマンスはできているか?
気に入られているか?
しっかり責任転嫁できているか?
計算高く生きているか?

ツキはあるか?

要領良く生きているか?
無理をしていないか?


もちろん全て、必要以上に。そして、本当にくだらないことだけれど。

この街に来て思ったこと。この年になって改めて思ったこと。奥歯を噛み締めながら歩いた。自分の居場所がわからず、あまり旨くはない酒を飲んだ。
青山、骨董通り、夜。
僕の、この街の原風景。



職場の近くで所用があったのと、やらなければならない溜め込んだ仕事があったので朝から出かける。

仕事を取るためのレポートを書かなければならない・・・

そんな朝の電車で、偉大なサッカー選手と一緒になった。心だけは若いよ、と爽やかに笑って、別れ際に握手までしてもらった。
彼の好きな言葉は、「すべてのものがやがてむくわれ、すべてのものがいつか救われる」だ。


仕事を取るためのレポートを書かなければならない。
ある本にはこう書いてあった。
「説得したい相手は誰か?
聞き手が無能だということはありえない。もし聞き手が理解できないとしたら、あなたのコミュニケーション能力がないだけだ。肝心なことはあなたがいう内容ではない。聞き手が受け取る内容である。」


その後、先人たちの教えを聞いた。

「その成し遂げた幸いを喜び、決して私の入滅を悲しんではならない。
また久しくこの世に住することを請うてはならない。汝はよろしく仏陀の境地を観察し、如来の境界は無常なることを覚らなければならぬ。それは万有の本体の、その本質もまた同性である。
さらに偈を説き給うて―。

一切のもの総て、生ずるものは必ず滅し
寿命、無量というも必ず終りあり
盛なるものにも必ず衰えあり
会うものにも必ず別離あり―。

人に死のある如く、万有に常住のものはなく、流転の苦しみに辺際なく、息むことなし。」


さあ、船が出るぞ!」





だから、お前は精一杯、生きろ。


今日はいい日だ。
ひんやりとした秋の空気が 私の足許に落ちてきて 何かを語りかける
私は聞かない
それでも赤や黄色たちは 私を引き止めようとする
あの山の澄んだせせらぎへ 私を連れて行こうとする
気配はやがて形を見せ 渦を巻き 嵐となるだろう
語ろう その前に
この限られた美しいとき
お前たちの歌を聞こう 思う存分

私はふさいだ耳を解き放つ
すると 金木犀のほのかな香りが私を包み込み
しばし楽園のなかへ




大学のまわりにはいくつか変わった場所があった。

物珍しいのと知的好奇心と退屈しのぎとで、2度ほど入ったお店「生きてるうちが花なのよ」は昔からあるジャズバーみたいな佇まいで、冒険小説と映画を愛するマスターのいる店というふれこみで、そのスペースも他と同様に、あの独特な居心地を味わえた。また、いつもお客さんはあまりいなかった。物置みたいな隠れ屋みたいな印象で、多少変わった味のするブラッティマリーを飲んだことは覚えているが、友達と話した内容までは覚えていない。

家のすぐ裏手だったのに不思議と顔を出すことはあまりなく、それでも足が遠のいてはいても、風の便りで知り合いがライブをやるとかマスターはアル中なんだとかいろいろと話は聞いていた。避けていたのだろうか、取り残されれた雰囲気に染まるのは嫌だったし、立ち止まっている場合ではなかったし、何よりもっと刺激を求めていた。動き続かなければ死んでしまうと思っていた。必死にもがいていた。クソッタレ、自分。

前の前の会社の時、知り合いの女の子と古風な酒蔵で写真展をやり、こじんまりとした別のスペース、カウンターだけのバーで打ち上げをした。たまたま、森山大道さんのワークショップに当時参加していたという中年の男性(写真はやめていた)や介護と写真に興味がある好青年が飛び入りでいらっしゃった。
知り合いの女の子は、そのカウンターだけのバーでたまにバイトをしているという話だった。また別のお客が差し入れた、いかしゅうまいをマスターがレンジで温めてくれ皆で食べた。その日はずっと、知り合いの女の子はカウンター側に座っていた。

会社の帰りにいつもそのお店の前を通り過ぎるのだが、いつもお客さんは入ってなくマスターだけがカウンターの向こうでレコードを聞いていた。ふらっと一人で立ち寄ってみようとも何度も思っていたが、結局挨拶だけにしていた。

写真展から1ヶ月くらい後だったと思う。「生きてるうちが花なのよ」通称、あだ花のマスターが亡くなったという話を知り合いの女の子から聞いた。第一発見者は、お店が終わった後よくラーメンを食べながら飲んでいたという、カウンターだけのバーのマスターだった。


花の命は短くて・・・
いくつかあったそれらのスペースは時の流れの中で今はもう、ない。