当地のおじさんたちはまず着ないような、一目で高価だとわかる紫色のロングダウンコート姿。

おぉ、ああぁぁ、はいはい。全くテレビも観ないし、日本に２０年以上暮らしていない俺でも認識できる人物だ。

日本でなら『大御所』だとか『オーラがすごい』とか言われるようなポジションにいる人だ。

「あ、こんにちは…」

と歯科のドアのそばであいさつした俺に対し、あちらも

「あ、どうも…」

みたいな簡単なやり取りだけで、自己紹介することもなく初診の手続きに入った。

受付の女性が、今何か飲んでいる薬があるか、と尋ねたのでそれを訳して伝えると、その役者はポケットから日本で掛かりつけの歯科で処方された薬をカウンターの上に無造作に置いた。

当然そのパッケージは日本語しか書いてないので、それを見た受付の女性は小さな声で

「What a heck is this... （ナニコレ？全く分からないんですけど）」

と言った。

とその時、先の受付のおばさん（マネージャー）が顔を出してきて、

「この人のことはエージェントを通して全部話しするから、通常の手続きしなくていいのいいの。すぐ治療に通してあげて」

と受付の女性に伝えた。

それから数分で名前を呼ばれ、５つか６つほどある治療室の一つへ通された。

俺もどうしたらいいのか分からなかったので、とりあえず役者に付いていった。

その歯科には歯科医が常時４人ほどいて、今まで俺は見たことのない女性の歯科医が入って来た。

彼女が言うことを日本語に訳して伝えたら、なぜかポケットの中から自動翻訳機を取り出して、

「私、こういうの持っているんで。『たぶん、歯茎だと思う』」

と、その翻訳機に向かって大きな日本語で話し、英訳された文字を歯科医に見せた。

さすがは役者だけあって、張りがありよく通る声である。

って、そういうことじゃなくって、俺がそばにいるんだから、俺に言えばいいのに。

我が父親と同世代のその役者。

他人に頼ることや弱いところを見せることを格好悪いとでも思っているのか、自分で何とかしようと無理に頑張っているように俺には映った。

それから何度か翻訳機を介して自分の言葉で伝えようとしたけれど、俺がパッパッパッと先にしゃべるので、そのうちに翻訳機はポケットにしまい込まれた。

それをするために俺はここにいるんだから。

「あと何か月かで日本へ帰って、掛かりつけの歯科へ行くから、とにかくこの痛みだけをどうにかしてほしい」

馴れない外国の地で、緊急に歯科へ来るくらいだから、相当に痛んだのだろう。

「じゃあ、痛み止めを処方するので、適切な処置は日本でやってくださいね」

と言い残して、その歯科医はさっさと治療室から出て行った。

当地の医療施設では、処方箋だけ医師から出してもらい、それを持って院外にあるドラッグストアのレジではなく、薬剤師のいるブースへ提出して、そこで初めて薬をもらうことになる。

ショッピングモールの一角にある歯科から３件ほど違うビジネスを挟んだところにドラッグストアがあるのを知っていたので、そこへ連れて行った。

そこまでする筋合いは俺にはないのだけれど、ここまでヘルプしているんだから、「じゃあ、ここで」とサヨナラできない性分なのだ。

薬剤師のいるブースに少し並んで待っているときに

「日本からは何人か役者が来ているんだけど、皆ホテルじゃなくてコンドミニアム（ハリウッドの映画会社が契約しているのだろう）に住んで、それぞれ自炊しているんですよ」

とか

「撮影は何か月もかかるから、私たちもその方が落ち着けていいんですよ。住んでいるような気になれるし」

というような話をしてくれた。

何人か出演者の名前を教えてくれたけれど、俺が知っているのは２人くらいだった。

そのうちの一人は個人的に結構好きな役者だったので

「これが〇〇さんだったら、ちょっと嬉しかったなあ」

と心の中で思った。

そうこうするうちに、その役者が処方箋を提出する番になったと思ったら

「あ、あれえ？　ない、ないぞ・・・」

さっきまで自分の手の中にあった、歯科でプリントしてもらった処方箋を捜し始めた。

そこに俺を放置して、ドラッグストアの中やら店の外まで捜しに行って、戻ってきたら

「やっぱりないわ・・・　どっかに落としたのかなぁ。年取ったらこれだもんなぁ」

みたいなことを小声で言っているので、

「本当になくしたんだったら、もう一度歯科へ戻って再発行してもらいましょう」

と、ノコノコと二人で歯科へ舞い戻り、受付で再発行の手続きをしていたら、例の受付のおばさん（マネージャー）が

「今ドラッグストアから電話があって、〇〇（役者）の処方箋が店内のフロアに落ちていたって。すぐに行ってくれる？」

（なんなんだよ、一体。本当にこの短距離で大切な処方箋を落としとったんかいっ！）

そう心の中で役者に突っ込みを入れながら、言われるまま再度ドラッグストアへ。

やっと痛み止めの薬が手元に収まり、役者は歯科が手配したタクシーが来るまで待合室で待つため、再々度歯科へ。

そこで初めて俺は自分のことを話し

「いやぁ、今日治療に来て、終わって帰ろうとしたら『あなた日本語話せる？』って聞かれたんで『Yes』って応えたんですよ。そしたら、医療通訳者が急なことで間に合わないから、日本から撮影に来ている役者の通訳10分ほどやってくれる？って頼まれたんですよ」

その時に彼の表情が一変し、

「ゑっ！！！あなたエージェントが用意してくれた通訳じゃなくて、ここの患者さんだったんですか？？」

「ええ、そうなんですよ」

（どうりで、「すまんすまん、待たせたな」みたいな感じでタクシーから降りてきたわけだ（笑））

彼はカウンターに置いてあったペンを勝手に手に取り、再発行してもらった処方箋の裏にスラスラと漢字で自分の名前を書き

「〇〇〇〇と言う者です」

「ああ・・そうですか（名前と顔は存じていますよ・・・）」

でも、そこは敢えて知らないフリをした。

だって彼は、耐えられないほど歯が痛むから異国の地で急遽歯科に来たまではいいものの、そこでは特にVIP扱いされるわけでもなく、その上、処方箋をなくしてオロオロする姿を初見の日本人に見られたのだ。

誇り高き世代、芸能の世界で活躍する”大御所”のことは、"知らないフリ"をしておいた方が、彼のプライドを傷つけることなく丸く収まると思ったからだ。

オーラはやっぱりすごいかって？

申し訳ないけれど、そんなもの感じませんでしたね。

高価なものを身に着けてはいるけれど、異国の地で歯痛に困り果てて医療機関に訪れるその姿は、我が父親と何ら変わりはないですよ。

そんなもんじゃないですかね、名声が全く通用しないような場所では。誰もが肩書を盾にして格好つける余裕がないのが普通でしょう。

「何かお礼がしたいんですが・・」

と、たまたまその場にいた日本人患者（俺）が通訳してくれていたことを知り、恐縮そうに言い出した彼。

「いえいえ、歯科からお礼に、ってカフェのギフトカードもらったんで、それで十分です」（後で分かったことだけれど、２時間近く通訳のヘルプをして、たった$10分のギフトカードだった（涙））

「〇〇という作品に出演します。よかったら観てください」

と、彼の表情は役者のそれに変わり、渋い声で言った。

「ああ、はい。わかりましたぁ。（あれ、、意外にすぐ、お礼の話はあきらめちゃったね（笑）」

「ぢゃあ、俺は帰りますね。タクシーはもうすぐ来ると思いますので」

まあ、なんてことだろう。

大の苦手の歯科でこんな展開になるなんて。

でも、本人に知らないフリしておいて、友人や知人にこのことを話して回るほど、俺は不義理なことはしない。

なので、その日の夜、配偶者だけにはこの出来事のことを伝えた。

人生、いつ、どこで、どんなことがあるか、本当にわからないものですね。

そうそう、磁気嵐の影響で、自宅バルコニーからオーロラが見えました。夏日だったので、風呂上がり日本上半身裸で30分も見入ってしまった

役者のオーラは見えなかったけど、オーロラはしっかり見えました(笑)

ある日、突然、歯医者さんで通訳になった ➋ (完結)