以前にも書いたことがあるけれど、俺は歯医者さんが嫌いだ。
いや、歯科医が嫌いというわけじゃなくて、歯医者さんという場へ行き、治療を受けることが子供のころから嫌いなのだ。
そして数年前に自分のビジネスをしていた時、突如燃え尽き症候群のような状態になってからは、更に歯医者さん嫌いの傾向が強まった。
もうそれは、歯医者さんへ行くことを想像しただけで、不安で仕方がなくなるほどで、正に”歯科医恐怖症”というものだった。
2か所ほど順に詰め物が取れて、それでも歯医者さんが怖いので2年以上先延ばししていたら、ついにはコロナ騒動になってしまった。
そしてカナダ国内がロックダウンしてから、口の中を扱う歯医者さんが営業休止になった。
これには歯並びや、歯の白い輝きをものすごく大切にする北米人にとって、それはそれは大事だったんだけれど、俺にとっては格好の『歯医者さんへ行かなくてもいい・行くことができない』理由ができて、世の中の不安とは真逆に安堵感さえ感じていた。
そんな俺が、もう何年も行っていなかった歯医者さんへ行こうという決意に至ったのは、愛娘の姿を見たからに他ならない。
6歳とかだった愛娘が、泣きながらも歯医者さんへ定期的チェックアップへ連れられて行く(俺は付き添いでも行きたくないので、配偶者がいつも連れて行ってくれた)のを見て、俺の中で一大決心がついたのだ。
「自分の愛娘には歯医者さんへ行って診てもらうことを勧めておいてからに、自身は一体どうなんだ!」
と。
歯医者さんだけに限ったことじゃなくて、当地の人々は、どこへ行っても注文が多い、というか自己主張がはっきりしている。
レストランやカフェ、医療機関。
「自分はこれが嫌だ」とか「こうして欲しい」
というのを遠慮なく伝える。
我が配偶者は、アレルギー体質ということもあって、グルテンや卵など、身体が拒否反応を起こしてしまう食品が他人に比べると多い。
当地では、先述のように自己主張がはっきりしている人が多いので、サービス業側もそれに対応することがすっかり慣れている。
ところが、日本ではまだそこまでサービス側が追い付いていないので、日本のレストランで配偶者が食べられないものを伝えると、スタッフに嫌な顔をされるとか
「申し訳ございませんが、それはできません」
と言われることが当たり前だった。
もしかすると、今では少し変わったのかもしれない。
そういうわけで、俺も歯医者さんへ予約を入れるときに
「歯科医恐怖症です、私。なのでお手柔らかに願います」
と伝えておいた。
それが俺のカルテに書き込んであるんだろう。歯科医はもちろんのこと、俺よりも断然年下の女性歯科助手たちは、治療中5分おきくらいに手を止めて
「Are you ok?」
と俺の様子を伺ってくれる。
それでも、治療が長引いてくると、歯医者さんに着いてからトイレへ行っておいても、必ずと言っていいほど再度催すので
「エクスキューズミー。ちょっとトイレへ行ってきていいかな?」
と尋ねることになる。
内心では
「めんどくさー、このおじさん・・・」
と、思われているのかもしれないけれど、そんなことはお構いなしだ。歯医者さんで格好つけていられるほど、俺には余裕はないのだから。
若くてきれいな(多分。マスクをしているので分からないけど)歯科助手たちの前で恥ずかしかろうが、自分のことを守ることが先決なのだ。
そんな俺なので、治療が済んで、治療費を支払い次の予約を入れたら、最後に〆のトイレへ行ってからトットと退散、というのがいつもの俺のパターン。
のはずが、その日に限って、受付のおばさんから
「マサノイチィ、Do you speak Japanese?」
と急に聞かれた。
「Yes, I do. Why?」
と俺。
「うちの歯科医院、映画会社と契約があってね。24時間のエマージェンシーで対応しているんだわね。どうやら日本の役者が歯痛で苦しんでいるみたいで、今からタクシーに乗って来るんだわ。
急なことだったから、医療通訳の手配がつかなくって。ほんの10分ほど手続きの間だけでいいから、あなた通訳してくれない?」
(よりにもよって歯科医恐怖症の俺に、そんなこと頼むかね~、しかし)
と思ったんだけれど、断る理由もなかったし、人助けになるなら、まあいいか、と
「まあ……少しだけならいいよ……」
と渋々受諾した。
恐怖症と向かい合うには、馴れることが一番、だと俺は思っているので、治療せずに歯医者さんという場にいることは、俺にとってもいいことなのかもしれないと思った。
「その役者、名前はちょっと思い出せないんだけど、エージェントによれば、日本ではかなり有名なんだって」
余談だけど、バンクーバーやその近郊では、昔からハリウッド映画やドラマの撮影が盛んで、マンモスサイズの撮影所がいくつもある。
映画にしてもドラマにしても、日本では日本人がマーケットなのに対して、当地では世界をマーケットにしているのだから、資金だけでなく撮影規模も相当なものなのだ。
俺がビジネスをやっていた時には、お客さんで何人も映画関係の仕事に携わる人がいた。当時ハリウッド映画に出演していた日本人の役者がコーヒー好きだったらしく、そのお客さんを通して大きなブロマイドに自身のサインを入れて置いていってくれたことがあった。
俺は特にその役者のファンというわけでもなかったので、そのブロマイドはどこかへ行ってしまったと思っていたんだけど、この前の引っ越しで久々に見つけることができた。
芸能の関係者に対してはそんな感じなので、心の中では
「誰が来るんだろうか? 今は何の映画(ドラマ)が行われているんだろうか?」
とか考えながらも
「いるだけで不安な歯医者さんで俺が通訳なんてできるのか?」
という、その不安の方が断然強かった。
「あと5分ほどで着くって」
通訳を依頼してきた受付のおばさんが、俺に向かってそう言った。
そしてその役者は、歯医者さんの目の前にピタッと停まったタクシーから、静かに降りてきた。
つづく