ファミリーでよく行く、森の中にあるトレイルを歩いていた。

頻尿の俺らしく、途中で催したので、人が通らないようなブッシュを探していた。
すると、向こうから人の気配が。
スキンヘッドのごつい身体をしたあんちゃんが近づいてきた。

(良かった〜。まだ放尿する前で)

ちなみに、スキンヘッドの人はいくらでもいるので、特別な驚きもなにもないし、ビビることもない。
当地ではスキンヘッドじゃなくてshaved head, bold と呼ばれる。

「Hi! このトレイル初めて来たんだけど、どこ行けばいい?」

と聞かれたので

「どっちに行っても迷うようなことはないよ」

と応えると

「Happy mother's Day!」

と、俺の配偶者に一言残して去って行った。

俺たちも朝の軽めなウォーキングのつもりだったので、来たトレイルを引き返した。
しばらくすると、誰かが木に結びつけたブランコでゆらゆらと揺れていた。
さっきのあんちゃんだ!

午前のまばゆい光に照らされながら揺れるあんちゃんは、白いシャツを着ていたこともあるのか、ひときわ大きな妖精のようにさえ見えた。いや、本当に。

「You found that! (それ見つけたね)」

と俺が言うと

「これ見たら、遊ばないわけにはいかないだろう。ほら見ろよ、丈夫に結びつけてあるだろう」

と、太い木の枝にチェーンで固定された結び目を指して言った。

今までもう何年もこのトレイルを通り、当然そのブランコの存在は知っていたけれど、誰が付けたのかもわからない代物。その上、断崖絶壁とまではいかないけれど、ブランコの揺れる先には、立派に、”落ちたら骨折間違いなし”レベルの深い斜面があるのだ。

しばしファミリーで揺れ遊ぶ妖精、じゃなくて、白いシャツのあんちゃんを見ていた。

「You wanna try? (やりたい?)」

と、愛娘に声を掛けるあんちゃん 。

意外にも、彼女は「yes」と応え、あんちゃんの手を借りながらブランコによじ登った。

森の中のワイルドブランコに揺られて興奮する愛娘を少し眺めてから、あんちゃんは

「 You guys keep playing.」

と言って立ち去った。よく見れば、素足にサンダル履きだ。さすがは、カナダ人である。

そして次は俺の番。
確実に俺よりもウェイトのあるあんちゃんが遊べたんだから、それは俺に安心要素となった。

「ゥォホホホーィィ」

と、自分でも不思議なほど変な雄叫びが"自然と”口から出た。
さっきも書いたように、揺れた先は深い斜面。安全性が保証されていない、森の中のトレイルにある『誰かが勝手に作ったブランコ』ということで、
「ロープが切れて斜面の向こうへ落ちるんじゃないか」
という恐怖を拭い去ることはできない。
でも、安全性が保証されていて、間違って落っこちても大丈夫そうな公園のブランコでは味わうことのできない、この爽快感。一体何なんだろうか。

もう何年も通い慣れているこのトレイルで、一度も経験したことのなかったこと。遊んでみようともしなかったこと。
俺はいままで、ただ、じいさんのように黙々とウォーキングして、時々負荷を与えるために山の斜面を駆け上がることをしたくらいだった。

〜〜〜〜〜

あるときに観たYoutubeの番組で、「人の死後の世界では、何が重要視されるか」というようなことを、確か臨死体験された方だったと思うけれど、こう話していたのが結構な記憶として残った。

ちなみに、当地では臨死体験を Near Death Experience の頭文字を取って、「NDE」と称される。そして、その経験をして、それを話している人も意外なほど多い。

それはさておき、その重要視されることっていうのは
『現世で、どれだけ新しいこと(それまでやったことのないこと)をしたか』
というものだった。

俗に言われる「善い行い」や「悪い行い」というのは、時代や国によって変化するので、それは重要視されることじゃないという。
「他者を思いやる」ことなども「善い行い」に含まれると思うので、このことが一概に「そうかぁ」と納得できるわけじゃないけど、”何が重要視されるのか” ということにポイントを当てれば、それはそれで納得させられた。

その日以来、同じように納得がいった、俺よりも遥かに “現実主義” な配偶者と共に、どんな小事でもいいから、「今日までトライしてことかったこと」や「ビビってやらなかったこと」を意識してするようにしている。

そして、その一つが、先述の『誰かが勝手に木に括りつけたブランコにトライ』だったというわけ。

自分の経験から思うと、子供の頃に「絶対ムリ」と感じた急斜面を、何度かコケながらもスキーで降りきったときの爽快感に似ているかなあ。。。

「それはアドレナリンというホルモンが分泌されて•••••」とかいう科学的説明は、ここでは野暮というもの。

どうなるかわからないことを『経験』してみることの方が、よっぽど人生の価値となる、と俺は思う。

さっきも書いたように、何も大事ばかりにトライする必要は全然ないと思うよ。

そうだなあ、お風呂に入ったとき、いつもは ”無意識” で、考え事なんかしながら髪から洗い始めるのを、“意識して” 真っ先に肛門を洗うとかでもいいんだよ、きっと。

そういう些細に見えることの繰り返しで。

どうやら、俺たち人間は、『経験をする』『経験を積む』ために、この世に生を受けたらしいんだね。


揺れ遊ぶ俺

基本的に絶対リスクのあることはしない配偶者も、とにかく『経験』した

一番余裕のある愛娘 (最近の流行りはヘソ出しルッキング。さすがはカナダ人)