今日の夕方、愛娘と一緒に個人経営の小さなスーパーへ行った。
最近配偶者の胃の調子が良くないということで、胃酸の出過ぎを抑えるトーフ(豆腐)を買いに行ったのだ。
種類は限られるものの、今日この辺りのスーパーに行けば、手軽にトーフが手に入る時代になった。
ヨーグルトが並んでいる大きな冷蔵庫の前で、2人であれにしようか、それともこれにしようか、と話していたら、後ろにいたじいさんが
「エクスキューズミー。欲しいものがあるので取らせてもらっていいかな?」
と丁寧に、落ち着いた声で尋ねてきた。
俺たちは
「もちろん。どうぞ〜」
と言って、冷蔵庫の前から動いた。
そのじいさんは、足が不自由で、杖をついてよろよろと歩いていた。よく見ると、その杖はなんとゴルフクラブで、上下逆さまにして杖として使っていた。さすがカナダ人である。
3月にしては暖かく、20℃近くまで気温が上がっていたので、じいさんは来ていたシャツのボタンを全開にして、モッジャモジャの胸毛をセクシーに露出していた。さすがカナダ人である。
無事にヨーグルトを手にした俺たちは、そのじいさんの後ろに並んでレジの順番を待っていた。
じいさんは買い物かごを使わず、2−3品だけを片手に持ち、もう一方の手には、そうゴルフクラブの杖である。
しばらくすると、
「グァシャッッ・・・」
と、鈍いながらガラスが割れた音。
じいさんの足元を見ると、見事にトマトピュレーのボトルが砕けて半径1メートルくらいに飛び散った。
災難だったのは、じいさんの前にいたおばさんである。
履いていたパンツの後ろ側や靴に、見事にトマトピュレーが地図の柄のように付いてしまった。
その瞬間、夕方の買い物客で賑わっていたはずの店内が「シーーーーーン」となった。
「あああっ、もう……、このじいさんやってくれたよ…」
皆の心の声が聞こえてくるようだ。
インド系の人たちの経営なのだろう。スタッフは皆そちらの人ばかりで、そのうちの一人は割れた音に反応して様子を見に来たと思ったら
「チッチッチッ」
と首を振りながら声に出した。いかにも面倒くさそうだ。
当のじいさんは、そんな周りの空気を読み取ったんだろう。つい数分前に俺たちに明るく丁寧に声をかけてきた同一人物とは思えないほど、静かに、そして何も言えず、「Sorry」の一言さえも口から出ず、自分がやったことに恥を噛み締めているようだった。
さっきの舌打ちスタッフは、じいさんや周りの客に気を遣うこともなく、ただただ無言でブラシとちりとりで面倒くさそうにガラス片とトマトピュレーを片付ける。
ピュレーまみれになったおばさんは、大人しい性格なんだろう。特にじいさんを責めるでもなく、自分のパンツや靴の汚れをさかんに気にしていた。
じいさんは結局そのまま口を開くことなく、レジでたった2品だけを購入して、バツが悪そうにコクッとレジのスタッフに頷いて店を後にした。
その間、俺の心の中ではなんとも表現しようのない感覚が漂っていた。
愛娘と俺も続いてレジで支払いを済ませ外に出ると、さっきのじいさんが店の真ん前に停めていた車にのっそりと乗り込もうとしていた。
脚が不自由なので、とにかく動きがスローなのだ。
じいさんの後ろ姿を見て、つい俺の口が開いた。
「エクスキューズミー。もうトマトピュレーはいらないの? 必要なら俺が買ってくるからさ。We all can help each other.」
俺の顔を見つめたじいさんの両方の眼からは、レモンを絞ったように涙が溢れ出した。
「友達が来るから買おうと思ったんだけど、レジの列は長いし、財布が見つからなくて焦りながらポケットをまさぐってたらボトルを落としたんだよ」
と、よほど店の中で言いたかったんだろうということを俺に話した。
そして、俺の後ろに立っていた愛娘に向かって(ああ、そうか、俺は愛娘と一緒にいたんだった、と思い出した)
「ヘイ、ガール! 君のオヤジは優しいやつだ! 誇りにしな!」
と、さっき無言で店を後にした同一人物とが思えないほどの張りのある声で吠えた。
やめてくれよ…俺は人の涙に弱いんだよ〜
「また明日買いに来るからいいんだよ、Thank you」
と、白髪だらけの胸毛をキラキラさせて車に乗り込んで行った。
俺は横を歩く愛娘に
「あのじいさん、びっくりしてナーバスになったから何も言えなかったんだろうね。でも、 Sorry くらいは言ったほうがよかったね」
と言って、俺たちも車に乗って家路についた。
その道中、後部席にいる愛娘がふと
「ダディ・・」
と呼ぶので、俺は運転したまま
「んっ?」
そしたら
「You are very kind.」
と一言だけ俺に伝えてきた。
俺はそれにちょっとグッとくるものがあって、一息飲んでから
「Thanks.」
と返した。
あの、誰も何もしようとしない、沈黙だけが流れた店の中。
俺が好きな、かつての穏やかなバンクーバーではあまりなかった、あの息苦しい雰囲気。
「これじゃあ、いかん」
と思って、あの時、つい俺の身体と口が動いたような気がする。
じゃあ、最後に書いておきたいことがある。
『みんな、もっと俺を褒めてくれてもいいよ 💛』