ハンニバル | しろグ

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第1号はハンニバル。
歴史上最も偉大な戦術家の1人としてその名を刻むカルタゴの名将。



第二次ポエニ戦役を起こしたカルタゴの将軍で、本名はハンニバル・バルカ。バルカはフェニキア語で「雷光」という意味だが、特にローマ人にとってこれほどふさわしい名前もない。父ハニミカルがイベリア半島のにカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)を造り、バルカ一門の王国というほどまでに隆盛を極めたが、ハンニバルは父についてそこで育ち、後に父にバアル神殿でローマ打倒を誓わされたという。ハンニバルとは「バアルの愛する者」という意味である。ちなみにカルタゴ・ノヴァはカルタヘーナという街として現存する。

彼を有名にしたのは、5万の兵士と37頭の象を引き連れて真冬のアルプスを越えた故事である。人の行き来さえ稀なアルプスの道なき道を切り開き、山道の氷を打ち砕き、厳寒の隘路をくぐり抜けた。兵士と同じ凍った食事を取り、同じ天幕に眠り、天幕さえ張れない時は崖下で兵卒たちと一緒に仮眠を取った。そんな厳しい行軍の最中に山岳民たちに妨害されて味方に犠牲が出る度に真っ先に駆けつけるのはハンニバルだったという。

もう1つ彼を有名にしたのはイタリアの平原で繰り広げられた「カンネの会戦」である。それまでも、ティチーノ、トレッビア、トランジメーノとローマの並居る良将たちを向こうにまわして圧倒的な勝利を収めてきた天才戦術家の将才が完璧に発揮された戦いとして知られ、ローマ軍87,200人に対してハンニバル軍50,000人で戦った戦闘である。結果は、相手の主戦力を非戦力し、ほぼ完全な包囲殲滅作戦を完遂したハンニバルの圧勝。ローマ軍は可能な限り全ての軍事力をぶつけたにも関わらず、その5/9のハンニバル軍に完膚なきまで敗れてしまった。この時の戦闘は現在の各国の陸軍士官学校で必ず教えられるという。

ハンニバルは孤高だった。部下の中に親しい連中は1人としていず、いつも厳しい孤絶を示した。26歳で軍を率いて東進し、アルプスを越え、16年間もイタリアに居座り続けたハンニバルは、もちろん常勝不敗だったわけではない。最後の数年間は追いつめられ、困窮もする。それでもハンニバルを見捨てた部下は1人もいなかったと言われる。ハンニバルが連れていたのは傭兵である。つまり金で雇われた連中であり、敗色が濃厚になったり給料の支払いが悪ければ脱走したり裏切ったりするのが当たり前の傭兵たちである。ところが、16年に渡った戦争で、ハンニバルを見捨てて離脱した兵士は1人もいないのである。

こんなエピソードがある。
ハンニバルに同行していたシレヌスという記録係の記録を参考にしたというリヴィウスの著作の一部らしい。この直訳が載っている塩野七生氏の『ローマ人の物語2 ハンニバル戦記』の中で、最も好きな箇所である。

「寒さも暑さも、彼は無言で耐えた。兵士のものと変わらない内容の食事も、時間が来たらというのではなく、空腹さえ覚えればとった。眠りも同様だった。彼が1人で処理しなければならない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれを片付けることが、常に優先した。その彼には、夜や昼の区別さえなかった。眠りも休息も、やわらかい寝床と静寂を意味はしなかった。兵士たちにとっては、樹木が影をつくる地面にじかに、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは、見慣れた光景になっていた。兵士たちは、そのそばを通る時は、武器の音だけはさせないように注意した」

そんなハンニバルが、最初で最後の敗戦を期す。
ハンニバルの戦術上の師匠はアレキサンダー大王であり、エピロスのピュロスだった。彼はその戦術を学ぶためにギリシア語まで学んだという。そのハンニバルに戦術上の“弟子”が現れたのである。ハンニバルの味方に現れればポエニ戦役の帰趨も変わっていたかも知れない。しかし、その“弟子”はローマ側に現れた。優秀な弟子は敵方にしか現れないという歴史の皮肉を十全に味わわせてくれるもう1人の天才戦術家スキピオ・アフリカヌスがローマの将軍となったのである。