楠木正成展大楠公博覧会
大楠公夫人ゆかりの地 山県市(伊自良)長滝
長滝地区の一番奥、伊自良湖に登る道のふもとに、ひっそりと、楠正成の妻、久子様ゆかりの碑があります。八王子宮と呼ばれるその碑の事を、地元の方は、楠木正成の妻の墓として、信じてきました。この事を語る語り部が高齢になり、この平成の世で絶えてしまうような気がします。私は、この悠久のロマンを語り継ぐ為、又、正成公夫人の墓の紹介のため大楠公博覧会を開催します。
久子様は、河内の国、甘南備村出身。あの楠正成と夫婦の契りを交わしてから、南北朝の動乱を生き抜いてきた女性です。去年の大河ドラマ「功名が辻」の千代が、山内一豊を上手に操縦した、と言う印象と違い、久子様は夫、正成の忠臣の信念に従い、黙って支えていきます。
楠正成は三国志の諸葛孔明の天才軍師的イメージになぞらえるほどの武将。河内の一豪族であった正成が、突然後醍醐天皇から呼び寄せられ、千早、赤坂城のゲリラ戦法で戦果を挙げる。建武の新政においては、朝廷の中心人物として、河内、和泉の守護に出世したが、足利尊氏の離反により、湊川の戦にて戦死。その間わずか五年。彼を支えた久子様のご苦労は、察するにあまりがあります。戦に破れた正成の首が、尊氏の温情で郷里に帰ってきます。それを見た息子正行が、悲しみのあまり自刃しようとします。「たとえ、正成は命運尽きて戦場に命を失うとも、後醍醐天皇陛下がどこかにおわすと聞いたならば、生き残りの楠一族とその郎等の面倒を見ながら、再度戦を起して朝敵を滅ぼし、政権を陛下のもとに奪回しなさい!」
久子様は、あの有名な「青葉茂れる桜井の・・・」桜井の駅にての父の言葉を思い出しなさいと、たしなめるのです。十一歳の正行は、その後、父の言いつけどおり、一三四八年四条畷の戦いで北朝と戦い戦死しています。正成が、後醍醐天皇に忠臣を尽くし、大楠公と呼ばれていますが、正行は、親の言いつけを守る小楠公といわれています。そして、久子様は敗鏡尼と呼ばれ、甘南備村(現在の大阪府富田林市)の楠妣庵に祀られています。
さて、それでは、辺境の地、伊自良と久子様の関わりはどうなっているのでしょうか。史実はともかく、関心を持って調べると、いろいろ、面白いことが分かってきます。前文の中に、聞き覚えのある言葉があります。そうです、久子様の生地、甘南備と言う地名、甘南美寺に似ています。六百年前の事です。伊自良史には、甘南美寺の奥の院は甘南備神社と書かれています。地元の歴史研究家によると、正成夫人は、同族全滅の後、日本中の神奈備(神の棲む所の意)と言う所を旅して、この伊自良を気に入り甘南備神社(奥の院)にこもって土地の人々から尊信を得て、その縁で、伊自良谷の各所に自分の郷里の地名を与えたと言うのです。
確かに河内国甘南備村には、平井、長滝、掛、松尾等伊自良と同じ大字地名があるのです。そして、甘南備村の口碑によると、正成夫人は、観世音像を念持仏として行脚に出たが終る所をしらずとあるのです。また、楠正成の首塚の有る観心寺も、甘南美寺も同じ十一面観音像を祀っています。又、伊自良地内の東光寺に、正成ゆかりの鈴が奉納されているという逸話もあります。
なぜ、正成夫人が、この地に来たのか。その秘密は、甘南備神社(奥の院)にあります。甘南備神社は、従3位甘南備明神とあり、美努王(みののおおかみ)を祀るとあります。美努王とは、葛城王(橘諸兄たちばなのもろえ)の父であり、橘諸兄は、楠木正成の祖先、橘一族の家祖であり、母、県犬養橘宿祢美千代は、後に律令政治の立役者である藤原不比等の妻となり、藤原一族の先祖でもあります。この神社が楠一族の先祖を祀った神社であれば、説明が付きます。又、長滝の南の部落、平井には、県犬養橘宿祢美千代を祀る県神社があります。甘南備の名は、正成夫人の生地でありますから、入寂後の可能性があります。遠い昔、伊自良の住民が、縁の無い河内の甘南備村のことを知るはずも無く、誰かが此処に来たと考えるほうが自然であり、相当地位の高い人で無い限り、生地の地名を頂かないでしょう。ただし、美努王の祖先には、甘南備真人の名(『新撰姓氏録』氏族一覧1(第一帙/皇別)あり。
久子様が伊自良に赴いた約十年前、伊自良の祖伊自良次郎左衛門有知の数代を経た伊自良次郎左衛門尉秀宗は、楠木正成の様に南朝方として戦っていた。藤倉城に一族の一部を残し、戦に出るが敗れ、福井の味見の里に逃れて、一部は、藤倉城に帰ったといわれています。その様な経緯がある伊自良ですから、正成夫人を保護していたとしても、なんら不思議ではありません。
伊自良次郎左衛門有知が居を建てた藤倉城(伊自良城)は、皇族伊自牟良君の館跡、雄略天皇の孫意富富等王(おおほどのおおかみ)の妻で汗欺王うしのおおきみ(彦主子王ひこうしおう継体天皇の祖父)の母、久留久留比売命(くるひのみこと)の生地であります。
あの日本武尊が東方遠征において、此処に立ち寄り、甘南備神社の御神体の巨巌を参り、美山へ抜けて行かれたという逸話もあります。
伊自良の祖伊自良次郎左衛門有知も、源氏の血を引いた藤原一族であり、父八田四郎知家は、頼朝や、義経の異母弟であるという説があります。平治の乱で、源氏の血筋を隠し、八田四郎知家と名乗り、幕府発足の功績で、伊自良荘の地頭となり、伊自良から妻を娶り、次男として有知が生まれる。そして、一二二一年の承久の乱において有知に功績があり、母の生地伊自良を賜って伊自良氏と名乗り、伊自良に城を構えたと伝えられています。その子孫伊自良次郎左衛門尉秀宗も、南朝として戦い、敗れてもなお一族の一部が此処に留まったと言う事は、北朝に帰属したと考えられ、正成夫人を城に住まわせず、奥の院を与え、地域の人に、面倒を見させたのかもしれません。
正成夫人の墓に記された八王子宮とは神仏習合下の両部神道に由来するもので、甘南備神社と、奥の院の関係を示し、千手観音(正成夫人の念持仏)を祀ると言う意もあります。甘南備神社の名は、湊川神社本殿にも、大楠公夫人を祀る神社としてあり、この墓の横に、稲荷大明神の石碑があるが、これも、湊川神社境内の楠本稲荷大明神との因果関係が示唆されます。
この付近の観音様は、だるま観音、谷汲等、普通十八日であるが、甘南美寺の命日は十七日。その秘密は、正成夫人の命日七月十七日に由来するものであるかもしれません。ちなみに、湊川神社の甘南備神社の月例祭も、伊自良の甘南備神社も同じです。
