Comment allez-vous?

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Je veux devenir une petite fille mignone...

Amebaでブログを始めよう!
久しぶりの更新である。

私のブログの読者は十指で数えられるほどしかいないのは承知のことであり、
私の文章にいかなるメッセージ性をこめても(こめられるほどの力量がないのは重々承知ノ助)、それが及ぶ範囲は限られている。
というわけで、「お芋がおいしかった」とか「バナナを買った」とか云々、のなんら私の思考の断片を語らぬ文章をブログで書くのは終わりにして、自分の言質に責任を負う勇気を持ち合わせていないぐらいには臆病であるからこそ、読者が少ないのをいいことにこれからはもう少し「私が何を思ったか」を文章にしていきたい。

いやはや、読み返せば読み返すほど自分の稚拙さに羞恥の念を抱かずにはいられない。
しかし、とは言えこれから「いかにも頭の良さそうな」「難しい」文章を書いて、他人を啓発し優越感に浸りたいという気は毛頭もない。
20歳にもならない(あと猶予は11日しかないが)洟垂れ小僧、ただ肩の上に「東京大学」などという世間では大仰に扱われるものが乗っかっている、たまたま乗っかっているだけの人間が、「お芋がおいしかった」という次元の話よりも少しだけ進んで、自分の思考を「文字」という形に置き換えるために、あるいはその置き換えるという行為の修練のために、これから徒然なるままに文章を書いていこうと思うのである。

常体の文章からはある種の傲慢さを感じる方もいるかもしれないが、
そのうちもっと砕けた文体になってくるのは必ずなのでしばしお付き合いを願いたい。

さて、東京では雨が降っている、降っていた。
窓の外を見ていないため、今がどうなっているかは分からない。

「時間」というものは不思議な概念である。
「時間の流れ」という表現をよく用いるが、本当に流れなどというものは存在しない。
「昨日」、「今日」、「明日」といった言葉(記号)を用いて形づくられたり切り取られたりしているだけであって、今、この瞬間というものを、実際に流れの中から汲み取ることはできない。
時間の不断絶性。
そういった小難しい哲学的な考えを今日は議論するわけではなく、そういった議論は過去も現在も多くの哲学者が行ってきているので彼らに任せるのが適切だ。(とはいえ彼らの考えを読むのは非常に面白い。後日考察)
時間概念という哲学的命題は閑話休題として、
もっと私たちの生活に密着した時間、ありふれた言葉で表現される時間、概念云々の考え抜きに生来捉えてきた時間、といういつも使っているような時間をここでは時間という言葉で表現したい。

「時間が解決するよ。」
何か困難や状況に陥った時、最もよく使われる表現の1つであるが、最近では以前にも増してよく耳にするようになったと思う。

3.11以降、被災地の巨大な悲しみも苦しみも享受することのできない私たちは、同情することも共感することも出来ず、ただ部外者になる恐怖から逃れるために、恐ろしいくらいに他人任せな言葉で励ますことしかしていない。励ましにすらなっていない言葉で。真にその人のこと考えて発しているとは思えない言葉で。

その最たるものが、「時間が解決してくれる」ではないだろうか。
どんな悲しみも、苦しみも時間の流れが解決してくれる。
だから、辛いかもしれないが将来きっともっと楽になるから頑張ろう。

「時間が解決してくれる」
ここでの時間。流れるものとしての時間。

川の流れのように時間を捉えるならば、その流れはどこに行くのだろう。
やがては海に行くのだろうか。
行きている時間が流れであるなら、人は大海を見ることなくその人生を終えるのだろう。
その流れには、それまでの悲しみも苦しみも喜びも幸せも全てが乗っていて、これからの悲しみや苦しみや喜びや幸せも更にその先新たに加わっていくのだろう。
なんだ濁流じゃないか。
全部が一緒に流れていくなら、堆積することなしに流れていくなら、悲しみも苦しみも喜びも幸せも薄れることなんて絶対ないと私は思う。

今日、しとしとと雨が降る中で、エミリー・ディキンソンの短い詩を読んだ。
声に出して詠んだ。

私は、痛々しい傷跡が今も心の中に残り犇めき合う被災地の人たちに何が出来るだろう。

時間は解決なんかしてくれない。
全てを汲んで流れていくだけ。

「他人事」として無責任な励ましをしたくない。
「わたし」という1人称が「あなた」という2人称に語りかけられるように、3人称同士のかけあいにならないように、まずは「わたし」自信のこの目で見る必要がある。
その先どうするかは今は分からない。
ただ分かっているのは、どうしようもない空虚な言葉を使って語りかけたくはないということだけだ。
そんな風に放射能に汚染された雨を見ながら思った。




They say that "Time assuages" -
Time never did assuage -
An actual suffering strengthens
As Sinews do, with Age -

「時は癒す」とひとは言う
時は癒したことなんかない
現実の苦しみは
筋肉と同じく年とともに強くなる

Time is a Test of Trouble -
But not a remedy -
If such it prove, it prove too
There was no Malady -

時は不幸を試すが
治すのではないー
治したとしたら、それはつまり
病なんてなかったということー

(1864)
エミリー・ディキンソン
 訳 柴田元幸