母のガンが再発。
ふと思った事。
淡々とそれぞれの役割を毎日、やりきる。

どんな悲しみや負の感情があっても、人によっては仕事、家事、その他の役割

宿命のような逆らえない病や事故で命を失う、家族やパートナー間の相手が命を失うと絶望に変わる。

しかし、病についてこの人はこうしていれば防げたや私がこの人にこうしてやれば病にならなかったはあるかも?

病になる事は辛い、病で亡くなる事も辛い、
しかし、その人がどんな結果で命を失うとしてもその人が役割をやりきり、旅たつには変わらない。

この人はこんなに無理に働かなければ病にならなかったや亡くならなかったはある。

しかし、その病はその人の生きた証であり、どんな生き様も必死に生きた証に感じる。

仮に他人で憎まれてや怠けてと思われる人も私はそうは思わない。

その人も憎まれるような振る舞いや怠けているようでも、その渦中で生き抜くはそうとう必死。

どんな人も旅たつ時は必死に生きた証なのかなと感じる。

家族→たんたんと仕事に行く、たんたんと家事をする、どんなに険悪でも食卓を囲み一緒に食べる、寝る、まるでルーティンのようだが以外と悲しみや辛い時もただ、たんたんは大切。
これはうちの家族、父は必死に仕事をする(家族に八つ当たりをしようが)母はたんたんと家事や食事の支度(父に八つ当たりされようが、子供が何をやらかそうが)この2人は我慢勝負にも感じる。修羅場のような事があろうとこの2人は食卓を囲む、食事を作る過程は何が起きようと変わらない。
その結果、2人とも病だらけ。

しかし、学ぶ事ばかりである。

家族を遠目から分析するとよく頑張るよねと感心してきた。

たんたんとやって嫌な言い方、悪い結果でもやりきれば「後悔」はいらない。

働けき過ぎで食生活が酷いの結果でや病や命を失うでも、その人が必死に選らんで早くも遅くも旅たつは「頑張って生きた」と見送るが大切。

この在り方や気持ちを忘れたくない。

もし、身近な人が旅たってもこれを忘れなければ、自分は寄り添い、立ち会い、旅立ち後も自分が立ち直り、またたんたんとした生活に戻れる。

辛い事は忘れたいと思うが辛い出来事や失敗も意味はあるし、今後の糧になるに違いない。