今回のブログのタイトルを読むとむちゃくちゃ節操のない女だと思われるかも知れませんが、私の中での人間関係は全て心の中で媾う(まぐわい)という行為の延長線上にあります。

 

エロスは愛を象徴する神の名前ですが、私がいつも言葉にしている『えろす』はまさしく愛そのもののことを指します。

 

 

愛の定義はけして男女の性欲に結びつくものだけでは無いのだと思っています。

男女愛、同性愛、親子愛、母性愛、人間愛等、あらゆるものの慈しみあいが愛というカテゴリーに入っているので、私の中の愛は恋愛だけに収まらないのです。

 

私は人と会うとよくハグをします。勿論、異性の場合は逆セクハラになってしまうのでそこは遠慮をしていますが、同性や子供達との初対面では無意識にぎゅっとしてしまい、相手を戸惑わせてしまうことも多々あります。

 

ハグは私からの精一杯の愛です。そして、目を見て交流をとるわけですが、そこには人を愛する心が存在しています。

そして、セックスでも相手を愛おしく思いながら目を見つめて愛を伝えます。身体を交じり合わせるか合わせないかの違いだけで、私の心の中では人間関係であふれ出てくる愛と、男女の関係で発生する愛と何ら変りがありません。

 

ついこの間、アテナ映像の代々木忠監督の出版イベントにお誘いを受けて、少しだけトークをさせて頂きました。懸命に聞いている来場者の方々やセックスについて真剣に語る参加者のゲスト、そして代々木忠監督のいる会場は、まさにその愛に包まれた非常に居心地の良い空間になっていました。

 

今回の代々木監督の新書『人生を変えるセックス』(たかが"性欲"と侮るなかれ)のキャッチコピーそのものです。確かに肉体だけの性欲もセックスという枠内に入ってはいますが私からすれば性欲だけのセックス等ナンセンスで、そこに本物の満たしは体感できないと思っています。

 

そうではなく、セックスは媾いがあってこそ心と身体が同時に満たされ、生命力という大きなエネルギーに膨らんで行くのだという価値観を持っているのです。媾う感覚を知らない人達の心は常に心の奥で満たされない虚しさや不安を感じているのではないか、乏しい上っ面の行動や言動に不満を抱えることに関連していつも何かを求めてしまうのではないかとも思っています。

 

代々木忠監督の新書『人生を変えるセックス』では、初歩的な性の悩みに丁寧に応えている本ですが、全ての相談に向けて監督の言っていることはただひとつ。

『媾いの愛を知ること』だと、私は解釈をしています。

 

媾いは心と心の繋がりを作りだします。

媾うことがしっかりと成立した時に自分と相手の境界線が無い状況を意識の中で感じながら性も肉体も全て消え去って宇宙の空間へと導いてくれるものとなります。

私が媾うことでオーガズムを感じたのは、母の胎内にいた記憶からより前に戻って自分の生命が出来上がる前の原点に帰るという究極の幸福感でしたが、実はそれは男女の肉体が絡みあわなくてもそこに到達することは出来ます。セックスをすっ飛ばしてセックスをするといった究極のエロスは愛の先にあると思って良いでしょう。

 

心を解放して他者に委ねることから始まってそこから委ねるという観念まで消えて行きます。

これを体験できる人は残念ながら少ないのかも知れませんが、少なくとも体験できた人は最初に身体に震えを感じて心を解放し、泣きます。そして白目を向いたり目を閉じてれば眼球がくるくると動いて本人はどこかに飛んで行くのでしょう、なかなか戻って来てくれなくなります。

その時はけしてセックスをしているのではありません、ただ媾うことだけで自我の強かった男性が受け身からオーガズムに達して行くのです。

 

私は媾う、愛は普段からの人間関係でも頻繁に行っています。求めるのではなく、分け隔ての無い愛(エロス)は老若男女問わず、注ぐことが他愛もない日常になっているので、私の場合はいつでもどこでも誰とでもセックスをしているという意味となるのでしょう。

 

このブログを読んでも意味がわからない人はきっと沢山いることかと思います。意味がわからないよって人はまず、初心者に優しい【人生を変えるセックス】という本を読んでみて下さい。

 

 

あなたの人生がより素敵に充実し、生きた人生となりますように。