中村勘三郎さん | まさきせいの奇縁まんだらだら

まさきせいの奇縁まんだらだら

原因不明の「声が出ない症候群」に見舞われ、声の仕事ができない中で、人と出会い、本と出会い、言葉と出会い、不思議と出会い…

瀬戸内寂聴さんの『奇縁まんだら』というご本を真似て、私の「ご縁」を書いてみようと思います。

「なんで自分でやらないの?」中村勘九郎(先代・当時)のこの一言が、カムバックのきっかけだった。
 
平成11年度NHK大河ドラマ『元禄繚乱』の打ち上げの翌朝。主演の勘九郎さんの広いご自宅を解放しての三次会は、呑めや歌えや踊れや、あんた誰やの繚乱で、夜を徹して催され、気付けば周りはまぐろの競り会場のような様相で、起きているのは、勘九郎さんと私だけ、という、まるで私の為に用意されたような、時間だった。
 
私は、俳優の友達に、大河ドラマが決まったけどフリーじゃ出られないから、形だけマネージャーやってと頼まれ、大河ドラマなんて、それまで全く興味もなかったくせに、好奇心満々で、用も無く現場や飲み会に、ちょくちょく顔を出していた。
 
奇遇にも、私は、今から30年程も前の『今宵も勘九郎』とかいうタイトルのテレビ番組で、司会の中村勘九郎というムチムチした人を、一目見た瞬間からファンになり、歌舞伎なんて一回も見たことがないのに、偶然知っていたことをこれ幸いに、八王子ロケ後の、役者ばかり集めた勘九郎の呑み会に、女子がいないというので女子枠で参加して、以来なんとなく覚えてもらっていた。
 
この頃の私は、「いつか人間になる可能性のある生き物」というようなレベルで、根拠の無い自信に包まれ、どこへでも大きな顔をして出入りしていた。
 
子どもの頃から女優になると決めていた私だったが、レポーターとか展示会コンパニオンという、自分にとって楽な仕事を見つけてしまい、迷うことなくその方面に乗っかった。バブルでもあり、仕事は途切れることなくあった。やれることをやっていればよかった。適当にやっていれば、なんとなくうまくいった。
 
ところが、20代半ばを過ぎて、失敗することが多くなった。チャンスばかりが先行して、はて、この仕事は何をすればいいんだろうか?と、仕事が決まってから、考える始末。
 
そして、ある日ふと、いったいどうして私は仕事をもらえていたのだろう、私の何に、仕事が与えられたのだろう。勉強も努力も嫌いで、ほとんどしてこなかった私が、仕事をして、いいはずがない・・・仕事をすれば、また失敗して、迷惑をかけてしまう・・・
 
恐くなった私はステージに立つことを辞め、ナレーションも私にしかできないものだけにして、テレビなどのレポーターの仕事も後輩に譲った。会社を作ってからは、社長業の方が性に合っている気がして、所属のみんなの為にがんばった。人の為が、自分の為になっていると感じていた。人の為なら、強気になれた。
 
ある時、多方面に手を出して忙しすぎの私と会社の将来を心配した当時所属のベテランナレーターから、「私がいないと、みんなが困るから」という私に、「それはどうかな?」と諫められ、その時は反発したが、今もこうして、心に強く残っている。彼の言葉が正しかったことは、その後、嫌という程思い知った。
 
そんな中、迎えた勘九郎との時間。
「あなた、元は、出てた人でしょ?」
「あ・・・はい」
「マネージャーがやりたかったの?」
「いえ・・・特にそう言うわけでも」
「なら、自分が出なさいよ」
「いえ、それは・・・」
「どうして自分でやらないの?」
「才能無いですから」
 
即座にそう言った私の顔をマジマジと見て、勘九郎は悲しそうな、なんとも言えない顔をした。瞬時に、私は“言ってはいけないことを言ってしまったのではないか?”と悟った。
 
「すみません・・・」
「また呑もう!」
 
勘九郎は表情を緩めて、そう言ってくれた。実現することを期待したけど、二度と勘九郎と会える機会は訪れなかった。
 
才能があるかないか、は自分で判断することじゃない。やりたければやればいいのだし、無理と感じてチャレンジできないなら、あきらめればいい。才能があるから続けられるのではなく、才能が無いからあきらめるというのも違う。
 
「上を向き続けられることが才能であり、あきらめることこそ、才能が無いということ」
 
そんなことが、するりと頭と心に入ってきた。
 
やがて、ナレーターや俳優の卵たちが大手に続々移籍していき、スタッフもいなくなり、私は一人になった。もう、「誰かの為に」の誰かもいない。これからの時間を自分のために使うことにし、原点に立ち返って、そうだ、私は女優、いや声優になりたかったのではなかったか、と思い出した。まだ、一度もチャレンジしていなかった。
 
勘九郎の言葉がよみがえった。
「どうして自分でやらないの?」と、言ってもらったあの時から、時間はそう経っていない。あの時すでに、そう若くはなかった私に、勘九郎は言ってくれた。まだ可能性はあるんだって教えてくれた。
 
失敗したら、以前は逃げた。けど、もう逃げない。2回や3回失敗したからって、次こそ失敗しないように、よく考える。でも、できれば1回も失敗しないように、準備にこそ努力する。時間をかける。それでも失敗する。笑われたって、うんざりされたって、最後に自分は笑うんだって、自分を信じる。
 
それから、自然に導かれるまま、いつか勘九郎に「あの時のあの言葉があったから、今私はここにいます」と言える日を楽しみに、自分を励ましがんばってきた。もう、直接会って、「え~俺が言ったの?無責任だね~」と笑ってもらうことはできないけど、今ここに、文章という形で、私の中村勘九郎がよみがえった・・・・・・
 
実は、この勘九郎を呼び出してくれたのは、瀬戸内寂聴さんの本とのご縁。この話は、またの機会に。