「禅」について | 夢追い人のブログ

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IT・経営コンサルタントを経て、㈱Dream-LINKを設立。
個人の夢が縦にも横にも繋がると、社会全体の価値を高められると信じて、誰もが、いくつになっても夢を持ち続けられるために活動しています。
夢ややりたいことを個人/法人両方の観点から捉えた記事を書いて参ります。

どうも、年末に友人のタイムラインで流れてきた以下の本を読んでいます。

禅と日本文化 (岩波新書)/岩波書店

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骨太な本なので、まだ7割程度ですが、全部読んでからだと、考えていることが抜け落ちそうなので、とにかくもここに残しておこうと思います。

まずは、いくつか本文から抜粋:

「厳格にいえば、禅には自己の哲学というものはない」(第5章)
「(禅は)思想上の上層建築物を無視して、直接に事実の根源に突き進むことを教える」(第5章)

ものであるから、儒教や神道など他の宗教とも共存することも可能であり、またその発展にも寄与してきたということのようである。また、第4章中の「心の置き所」というくだりに、

「何処なりとも、一所に心を置けば、余の方の用は皆欠けるなり。然らば、則ち心を何処に置くべきぞ。我答えて曰く、何処にも置かねば、我身一ぱいに行きわたりて、全体に延びひろごりてある程に、手の入る時は、手の用を叶え、足の入る時は、(中略)思案すれば思案に取らるる程に、思案も分別をも残さず、心をば総身に捨て置き、所々に止めずして、其所々に在て用をば外さず叶うべし」

とある。

これを読んでいて、孔子の論語にある有名な一説を思い出しました。

吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

と。

ここで言う、「心の欲する所に従えども」という時、この「心」はきっと禅で言うところの、「無心」なのであろうと思いました。学もあり、天命も知り、他人の助言にも耳を傾けることができ、さらにそれでも、70になってようやく、「無心」の境地に至ることで、ありのままのことを成せる様になる、と。

「矩を踰えず」とは「人の道を外すことがなくなった」と解釈している文献を見ましたが、心を一所にとどめることなく、我が身に行きわたらせることができる禅の境地に立つということと同義、つまりその様な状態になっていれば心の欲するところに常に従うことになることであり、それが道を外れるということさえ、もはやありえないのではないかと解釈します

それに、言い換えれば、究極的には「人の道」でさえも意識することはなくなってしまうものでしょうから、それを外すことはないといえるのではないでしょうか?