昨年、50歳で、20年以上にわたるサラリーマン生活にピリオドを打った。

 

大学を卒業してからの、長い長いサラリーマン生活の間に

 

「ちくしょう、こんな会社辞めてやる!」

 

とか

 

「あー、こんなストレスの中で、もう仕事を続けられそうにないなぁ」

 

などと考えることは、それこそ数えきれないほどあった。

 

しかし、それは「万が一、会社を辞めた後でも、別の会社に転職する」ということが大前提だった。

 

生活するには、お金が必要だから、当たり前の話。奥さん、幼い子供二人がいるのなら、なおさらのこと。

 

 

ところが、46歳で社内異動になった頃から、新しい環境と業務にどうしても慣れることができず、日々、仕事に対するモチベーションが失われていった。そんな自分に自己嫌悪を感じつつも、家族を養うためには働かざるを得ず、転職しても現在の給与水準はとても維持できるとは思えず、本当に、仕方なく、それこそ惰性で仕事をしているような状況が日々続いたのである。

 

そんな中、決定的な出来事が起きた。なんと、僕がうつ病を発症してしまったのだ。

 

その頃、世界では、コロナ禍が広がり、会社の勤務はほぼテレワークに切り替わった。長男が通っていた幼稚園ではコロナ罹患者が出て長期間休園となり、政府が不要不急の外出を自粛するよう呼びかける中、家族でどこにも出かけられず、四人家族の我が家では、朝から晩まで家族だけでの三密状態が続いた。

 

ちょうど、その頃、「コロナ鬱」という言葉が世間で言われるようになってきた。

 

 

そして、僕自身が、まさしくその範疇に入ってしまった、ということになる。

 

 

心療内科に通い始めても、うつ状態は改善するどころか、日に日に悪化していった。そして、2020年の年末のある日、会社の社内打ち合わせで、なにか言おうとしても言葉が出てこなかったり、簡単な計算(九九)すら思い出せない状況になった時に、(このまま働き続けたら、精神が崩壊してしまうかもしれない)と強烈に思ったた。

 

そして、妻とも相談の上、退職を決意した。

 

僕の場合、幸運にも、数年から数十年の間、働かなくても家族四人が生活できるだけの十分な資産(純資産1億円以上)がすでにあった。だから、悩み抜いた末ではあったが、最終的に退職を決断できたし、妻もその決断を快く受け入れてくれた。

 

ちなみに、1億円以上の資産をどうやって作ったのかというと、僕は資産家に生まれたわけでもなく、サラリーマン時代は、格別、高給取りという訳でもなかった。

 

ラッキーなことに、30代の頃に思い切って購入した、渋谷駅前の中古おんぼろマンションが、その数年後に建て替えられることになり、その資産価値が3倍にも跳ね上がったのだ。ある意味、宝くじに当たったようなものだ。

 

今から数年前、そのマンションを購入後、すぐに家族帯同での海外転勤となったので、マンションは賃貸に出していた。その後、老朽化による建て替えが決まったのだが、建て替え後の新しいマンションに住む可能性も少なかったし、「都心区の不動産価格が高騰している今が売り時なのではないか」と考えて、売却を決意した。

 

そして昨年、無事に売却が完了したのだが、今年3月の確定申告で、これまで社会人として稼いだ最高年収よりもはるかに高い金額の所得税を払い、さらに6月には、これまた経験したことがない高額の住民税と社会保険料の請求が届き、目の前が真っ暗になった。

 

ところがどっこい、それだけではなかった。

 

児童手当(長男0.5万円、長女1.5万円/月)までもが(一時的に)高額納税者になったことで所得制限に引っ掛かり全額不支給となった。さらに、これまで長男が通っていた療育のための放課後デイサービスも、月額4600円の利用料が、所得制限を超えたことで、37,800円と大幅に増額された。

 

 

ここまでくると、もはや、これは国家によるいじめではないのか? と本気で思った。

 

 

知らんけど。

 

 

いや、知っとるがな。

 

 

この時、僕は、世の中のお金持ちと呼ばれる人々が、なぜ節税に走るのか、という理由を心から理解した。

 

たが、それでも、最終的に、1億円以上の現金が手元に残った。

 

会社を辞めるにあたり、当時住んでいた大阪の賃貸マンションは、借り上げ社宅だったため、退職日までに引き払う必要があった。僕としては、退職後は、しばらく無職で療養が必要だと考えていたので、「もっと自然が豊かな環境の田舎に家族で移住したい」と考えていた。

 

当時住んでいた賃貸マンションは、長男が生まれると同時に転勤で引っ越してきて、妻は、すぐに仲の良いママ友がたくさん出来て、それからすでに4年が経っていたので、住み慣れていたし、そこを離れることに躊躇したようだった。ただ、僕の病気の療養と子供達にとって、より良い教育環境が整った場所に移住したい、という僕の望みを妻は快く受け入れてくれた。僕と妻の実家は関東にあったが、関東に戻ることは考えず、最終的に、北海道の人口1万人以下の小さな町への移住を決めた。

 

僕の退職が決定してから退職日までには、有給消化も含めて約半年あったので、非常事態宣言が解除となったタイミングで、移住先の候補の北海道の自治体の視察を兼ねて、2週間の家族旅行をした。

 

我が家の長男くん(当時4歳)には、発達障害と呼ばれるような症状があり、2歳の頃から療育手帳をもらい、週一回、療育施設に通っていた。移住先でも療育が必要な状況だったので、彼の療育に必要な環境が整った学校や施設がある北海道の自治体をすでにピックアップしていた。

 

その町には、有名な公立小学校があった。ネットでもいろいろと評判になっていて、新築の校舎は、平屋建てで、まるで近代的な美術館のような美しいたたずまいだという。教室と教室の間の仕切りが無くて、全ての学年同士が、オープンに交流できるような環境づくりのためだという。

 

さらにいろいろ調べた結果、以下のようなことがわかった。

 

・特別支援学級には専属の担任先生が付いてくださるが、原則、全ての子供は通常学級のクラスの一員として扱われる。支援学級に通う子供は、国語、算数の授業のみ、通常学級と別れて支援学級で授業を受けるが、それ以外は、通常学級の子供達と同じ授業を受ける。

 

・入学時、特別支援級でスタートした子供が、学年が進むにつれ、都度、保護者と本人の希望があれば、担任と話し合いのうえ、通常学級のみに変更できる。変更する場合、保護者と本人の希望が最大限に尊重される。

 

・保護者、小学校、自治体の療育支援センターは、子供の療育支援状況の情報を共有し、個別の療育計画を協同で作成、管理する。

 

都会では、近年、小学校の特別支援学級に通う児童の人数が多くなりすぎて、個別に丁寧な支援・指導をすることが難しい状況だということを聞くこともあったが、北海道の小さな自治体でこのような充実した教育環境が整っていることを知り、とても驚いた。

 

(ちなみに、その後、今に至るまでにわかったことだが、田舎で特別支援学級に通う児童に対して手厚いケアができるのは、田舎では絶対的な児童数が少ないために、学校側もいろんな意味でゆとりがあるため、と当初は思っていたが、実際は、それ以上に、自治体、教育委員会、現場の先生方が、積極的に先進的な教育手法を取り入れ、継続的に熱意ある取り組みをされてきたことによるものだと、知ることとなった。日頃よりお世話になっている方々に、一保護者として心からの感謝と敬意を申し上げます。)

 

 

移住先の候補となる自治体を訪れた日、まず初めに、小学校を訪れた。

 

そこは、都会では考えられない広大な敷地に囲まれていて、確かに建物自体は、評判通り、言われなければ小学校だとわからないくらいの芸術性の高い建物だった。校舎の入り口の前には、美しいオブジェが展示されていて、本当に美術館みたいだった。

 

ネット情報ではではわからなかったのだが、校庭の周りは芝生で囲まれていて、すぐ隣には専用の野球とサッカーのグラウンドがあり、学校の敷地全体は、さらに広大な田んぼやトウモロコシ畑に囲まれていた。

 

野球のグラウンドの前に来ると、そこは、まるで、映画「フィールド オブ ドリームス」に出てくるトウモロコシ畑の野球場みたいだった。

 

 

If you build it, he will come

 

 

今にも、そんな声が頭の中で聞こえてきそうなほどに。

 

 

小学校の周りをぐるっと見て回った後、僕たち家族は、町の中心部に向かって通りをぶらぶら歩いた。

 

レンガ造りの町役場を過ぎて、すぐに広々とした芝生の敷地に建つ近代的な平屋の建物が見えてきた。町の図書館らしい。見てきたばかりの小学校と同じく、およそ田舎にある図書館とは思えないくらい、洗練された建物のデザインで、建物の軒先には、ゆったりとした広い空間にオープンテラスが並んでいて、学生らしき人たちが勉強していた。大きなガラス窓から図書館の中を覗くと、広々とした読書スペースと豊富な蔵書が並んでいるのが見える。不思議と、その場に居ると、都会の図書館にいる時よりも、確実にゆったり時間が流れているように感じた。そんなはずはないのだが。

 

建物の前の広大な芝生は綺麗に刈込されていて、その一画には3畳のほどのスペースにタイルが張られていて、地面から小さな噴水がランダムに吹き上がっていた。我が家の子供たちと同じくらいの年齢の子供達が、歓声を上げながら、噴水の周りを走り回ってた。

 

案の定、我が家の子供達は、親の許可が出る前に、あっという間に靴を脱ぎ捨てて、見ず知らずの子供たちの輪に飛び込んでいって、一緒に歓声を上げながら駆け回りはじめた。我が家の場合、噴水の水に体当たりして、服がずぶぬれになる事などお構いなしである。

 

やがてお昼時になり、まだ遊び足りないと言って不平を言う子供達を何とかなだめすかして、見ず知らずのご家族に別れを告げてその場を離れた。

 

図書館の前の通り沿いは町の中心地で、カフェ、カレー屋、うどん屋、ピザ屋などが通り沿いに並んでいて、地元の人達ががランチの行列を作っていた。

 

なんだか、町の雰囲気をすっかり気に入ってしまった。妻の顔色を見て、どうも同じような心境のようである。

 

 

「お父さんとお母さん、ここに引っ越してこようと思うんだけど、どう思う?」

 

 

その日の夜、子供達に聞くと、

 

「いいよ~、ここに住みたい!」

 

「私も!」

 

と二人とも元気に答えてくれたので、(今となっては、その場の雰囲気でそう言ったのだと思うが)

 

満場一致で、その町に移住することが決まった。(続く)