久々に心を動かされる映画を見ました。

「海軍一の臆病者」と噂された宮部久蔵という

零戦パイロットの僅か26年の生涯と

彼を祖父に持った青年のルーツ探しのストーリーです。


宮部戦闘員は真珠湾攻撃、ミッドウエー海戦等を経験しかつ生き残り

はては大本営の方針により南方戦線へと配属され

最後は終戦まじかの「特攻」に参加

米空母に体当たり攻撃を敢行し、その生涯を終えます

特攻に参加するまでは乱戦になると

スーッと編隊より離脱し生き延びていた宮部

その宮部が飛行技術のレベルをかわれ、後進の育成に努めるうちに

数々の戦いで年少の部下、同僚が命を落とすのを看取ってゆく

その過程で彼は考えを変えてゆきます

「公に自分が戦争で死ぬのは一国に奉ずる命だからどうという事はない

しかし、私事として考えた場合残された妻、子どもの事を真剣に考えると

無駄死にはどうしてもできない」

こういう彼が徐々に考えを変えて行きます

「みんな死んでいった。そろそろ俺も…」

というよりも彼は自分の「命の使いどころ」を待っていたのだと思います。


今日、日本は戦争のない平和で豊かな国と成りました。

しかしその平和の陰には特攻隊員をはじめとした数多くの命の犠牲の

もとに成り立っているともいえます

命を落とした若者の中には家族・兄弟のこと、

そして日本の行く末を真剣に考えた人が多かったようです

何か重い命題を残されたような気なってしましました。


「お前は命の使いどころを持っているか」

「少しはこの日本という国のことを考えたことがあるか」



彼がこの世に生を受けたのは大阪の地であった。

布施市といって昭和30年当時、大阪府5番目におかれた市制の

街のごく小さな産院で生まれた。

父は新潟県庁職員で同県荒川町(当時)の出身で

同県の特産品である米、清酒等の紹介・経済振興を促す

大阪出張所に勤務する公務員であった。

母は代用教員をしており同県岩船町(当時)の出身で

布施市近辺の八尾市立掛川小学校に勤務していた。

二人は郷里新潟で、見合い婚により結ばれた夫婦だった。


彼には大阪時代の記憶が2つほどあった。

1つは母に抱かれて公園のような場所で屋根のついた

ベンチに座っていた事。夕刻もまじかい頃であったろうか。

1つは晴天の日に手入れのされたきれいな芝生の上で遊んでいた

記憶。手前に低い網状のフェンスがあったようである。

長じて母から聞いた話によると、この2つの記憶は

いずれも住まい近くの近畿大学構内の設備に於けるものであった。

父が県職員に成った時に世話になった人の勧めで、近大の夜間部に

席を置いていたためである。



ところが何時の頃からか、この1つ目の記憶に不思議な感覚がともなって

いることに彼は気付きはじめていた。

それは男が女に対して抱く「あの感覚・衝動」に近いものであった。



大阪での彼等一家の生活は、父の酒乱に近いともいえる性癖ゆえ

悲惨なものだった。

父母は新婚早々大阪での生活を始めたのであったが、

その大阪での生活が始まり3日ほどたった夜、

父は定刻を過ぎても帰宅しなかった。

「あの人に何かあったのでは…」

そうした不安を胸に母は最寄りの近鉄長瀬駅近くの駐在所を尋ねた。

不安げに事情を話す母の話をよそに当直の巡査は

「奥さん心配ありまへんがな。朝になったら旦那はん電車で戻って来ますは…

仲間のひとと一杯やられとるんのとちゃいまっか?」

そう言い、取り合ってはくれなかった。

果たして父は一番電車で帰ってきた。巡査の言ったとおり酒臭い息をはき、

着衣ネクタイは酔漢それであった。

「あなた大丈夫だったのね」

母の口から安堵した自然な言葉が出た。

父はそれに対し、あろうことか母の顔面を殴りつけるという返答で

応じたのだった。

「余計な心配するんじゃない!わざわざ駅まで来やがって。人が見てるだろー」

そう吐き捨てた。

新婚3日目のそれは大そうな光景であった。


ちなみに布施市は、昭和42年に現在の東大阪市として改変統合され

現在に至っている。


この物語はあくまでもフィクションにすぎません。

登場人物、団体等は架空のものです。








予報によると今週の新潟はとても天気がいいようです

まだ、始まったばかりなので分かりませんが

今日などはクルマの車内は

まったくエアコンなしで行けるほどの陽気でした

はっきりいって汗ばむほど!


こうした北国に暮らしていると

本当に「春」のおとずれがありがたいのです

今週末のタイヤ交換は絶対ですね(^-^)/