本日は、
バスケットボールの神様、
『マイケル・ジョーダン』を題材に、
彼から学べる様々なことを書かせて頂くシリーズの
『part5(本編)』となります。
前回の『part4(←記事へジャンプ)』では、
『守備が弱点だ』と世間から批判を受けたマイケルが、
言葉ではなく行動で自分が正しいことを証明したという
エピソードをご紹介し、
常にハングリーな精神を持ち、
正しい行動と努力をして結果を出し続けることの重要性
といったことを書かせて頂きました。
今回は、
『自分の人生は自分で決める』
といったものをご紹介させて頂こうと思います。
既に何度も書いてきていますが、
マイケルは1984年にプロデビューし、
圧倒的な存在感と実力でスーパースターへの
階段を駆け上がっていきました。
なかなか縁のなかったNBAチャンピオンの座も
デビュー後7年目(1991年)にして手に入れ、
名実ともにスーパースターとなりました。
続く1992年、1993年にもチャンピオンになり、
3連覇(*)を達成、『王朝時代』を築きました。
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(*)3連覇(スリーピート)
昔から3連覇を達成すると『王朝時代の到来』
と言われている。
目指すチームにとっては非常に高い壁である。
『スリーピート(Three-peat)』とは、
Three-repeat(優勝を3回繰り返すこと)
からきている造語。
ちなみに2連覇のことは
『バック・トゥ・バック(Back to Back)』
という。
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この1993年頃というのは、
マイケル個人としても『全盛期』だったので、
誰もが
『90年代はシカゴ・ブルズが王朝を築く』
『マイケルの時代になる』
と思っていました。
しかし...
世界中を揺るがすニュースは突如として
やってきました。
1993年10月6日、
【マイケル・ジョーダン現役引退】。
マイケルは突如として
現役引退を発表したのです。
3連覇(スリーピート)を達成し、
個人としても絶頂期を迎えた矢先での電撃引退。
この発表に世界中に衝撃が走り、
世界中のファンが悲しみに暮れました。
マイケルは会見で
『バスケットボールに対する情熱を失った』
と引退の理由を述べていて、
頂点を極めたことによるモチベーションの低下は
否めないと思いますし、
スーパースターであるが故に日々メディアから追われ、
あることないこと書かれることへのストレスがMAXになった、
という原因もあったのではないかと思います。
ですが、
マイケルが引退を決意した最大の理由は、
他でもない
【最愛の父・ジェームズの死】でした。
1993年8月、
シカゴ・ブルズがNBAファイナル(全米決勝)を制し
3連覇を達成した年の夏の出来事でした。
マイケルの父・ジェームズは、
友人の葬儀からの帰路の途中に仮眠を取るため、
ノースカロライナ州のハイウェイの路側帯に停車していたところ、
二人の強盗により殺害されたのです。
マイケルは幼い頃から
父親であるジェームズを尊敬していて、
人生において大切なことは
いつもジェームズが教えてくれたと言っています。
そして、これまでのマイケルの人生において、
大切な場面では、必ずジェームズが傍にいました。
↑NBAで初優勝した時の有名な一枚。
優勝トロフィーを抱きしめ涙を流すマイケルを
隣で労う父ジェームズ。
↑2連覇(Back to Back)した時。
↑3連覇(3-peat)を達成した時。
本当に掛け替えのない存在を
突然失ってしまったマイケルは、
現役引退とは別に、
もう一つ大きな決断をしました。
【メジャーリーグへの挑戦】。
NBA界のスーパースターであり、
バスケットボールの神様と呼ばれる男が、
全く異なる競技である『野球』に挑戦すると
表明したのです。
この発表に対し、
世間は本気に受け止めていませんでした。
しかしマイケル本人は、
バスケットボールの練習に取り組むように
誰よりも高い意識で人一倍練習に取り組みました。
移動もNBA選手時代はチャーター機でしたが、
マイケルが所属したのはマイナーリーグだったため
移動は長距離でもバスでした。
また、
食事管理や肉体管理も全て自分自身で行いました。
今までの超VIP待遇からの落差は一目瞭然ですが、
マイケルはこれらを受け入れ、
他の若い選手たちと同じ条件で日々野球に取り組みました。
そもそも、
マイケルはなぜ野球に挑戦したのか?
その真実はこうです。
亡くなった父・ジェームズは、
マイケルが幼いころから、
将来は野球選手になることを勧めていて、
自分の息子(マイケル)がメジャーリーグの選手に
なることが夢だったのです。
そしてそれ(野球選手になること)は、
バスケットボール選手になることとは別の、
マイケル自身のもう一つの夢でもありました。
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ちなみにマイケルは
少年期から高校時代まで野球をしていて、
将来有望視されるほどでした。
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マイケルは父・ジェームズの死を受け、
父・ジェームズの夢であり、
自身のもう一つの夢でもあったメジャーリーガーになるために
野球に挑戦したのです。
★Michael Jordan To The Max★
↑何度もご紹介していますが、
やはりコチラを観て頂きたいです。
父・ジェームズから学んだことや
エピソードをマイケル本人が語っています。
結果はというと、
メジャーリーガーの夢は叶いませんでした。
実力は申し分なく、
メジャー昇格も有力視されていたのですが、
1994途中から選手会がストライキを実行し、
95年シーズンの開幕が遅れたことに加え、
メジャーへ昇格していないにも関わらず
チームの首脳からオープン戦への出場要請があり、
これに対し若手選手たちから
『出場したらメジャーリーガーたちに嫌われるかもしれない』
と忠告が入りました。
(実は、これは大人の事情も絡んでいます)
自身の身の振り方を考えたマイケルは、
どうしたら良いか分からなくなり、
悩んだ挙句、
マイケルは突然クラブハウス(ロッカールームなどがある建物)を引き上げて、
シカゴ・ブルズの練習場へ戻ってしまいました。
後にマイケルが所属していたチームのコーチは、
『あと2年ほしかった』と話していたそうで、
マイケルが野球から離れざるを得なかった状況を惜しみました。
マイケルはその後、再びNBAのコートに戻り、
伝説の続きを創り上げていくことになります。
(伝説の続きは別の機会に書こうと思います)
メジャーリーガーになるという夢は潰えましたが、
父ジェームズの死やストライキ、
そして大人の事情が絡む問題等、
マイケルは自分の身に降りかかった出来事に対して
自分の気持ちに正直になって考え、決断をしてきました。
『どうすることが正しいのか』
『どうすることが最善なのか』
答えは自分にしか分かりませんし、
自分が出した答えに自信と責任を持つべきです。
いいわけは通用しません。
マイケルは今まで数々の大きな決断を迫られてきましたが、
父・ジェームズの教えに従って全て自分で決断してきました。
自分の人生における決断を他人に委ねるということは、
自分の人生そのものを他人に委ねるのと同じだと思います。
人生は一度きりです。
僕もマイケルのように全て自分で決断して、
自信と責任を持って堂々と生きていきたいと思います。
というところで、
本日は以上となります。
この記事を読んでくださった方の心に
何か気付きを与えられていれば幸いです。
頑張っていきましょう!!
こすが まさふみ