破戒――何という悲しい、いさましい思想だろう。
 
と、本文にこんな一文が出てきたが、作品を読むと「悲しい」「いさましい」という意味が、心の底からよく分かる。
 
主人公の苦悩と共に、じっくりと物語が進んでいき、こちらも腰を据えてじっくりと読み、クライマックスの場面は思わずグッときてしまった…。

男性が本音や心情を吐露する姿、さらに不本意にも涙…、というのにどうも弱いみたい…💦 人によるけど…

 

 

破戒 (新潮文庫)

 

 

身分制度という制度が明確に確立したのは、江戸時代だろうか?
士農工商で武士と農民など階級がはっきりと区分けされ、その後明治に廃止はされるものの、差別の意識が制度的に人々に根強く浸透したのはここ(江戸)からでは…?と思っている。けれども、制度でない差別は、そのまた昔も現在も変わらなくある。
 
 
この作品は有名だけど、はじめて読んだので…、ごく簡単に内容を…。
 
主人公は長野県の部落出身のエタ、漢字で穢多(穢れが多いと書くのか…)、差別対象とされる生まれの青年、丑松(うしまつ)。
明治時代、差別と偏見の中で身分を隠しながら小学校教員となった丑松は、父から堅く言われ続けていた「素性を隠せ」という戒めに苦悩する。
同じ出身の猪子蓮太郎の著書に惹かれ、そして予期せず訪れた猪子の死。丑松は父の戒めを破る決心をする。
 
 
『破戒』の舞台。
島崎藤村もこの辺で英語教師をしていた。
 
 
生まれによって、まるで人間以下かのようにみなされる屈辱。現代の私たちがみれば、そんな不条理な…と思うのかもしれないけれど、部落差別の意識が社会から消え去るのは容易ではないのだろう。そんなアウトサイダーとなる人々への呼び名が忌わしく強烈すぎた。
 
穢多、屠児、河原者、賤民、新平民、四足、調里…
 
だから、丑松の父が言ったように、どうにか隠し通すしかないんだろう。
ただ、そういう重石は、いつも心に引っかかっているから、日常生活を送る中で、常にそれがまとわりつく。素直に笑えないだろうし、恋をしても気持ちを伝えることができない。
身分が明かされたら社会から抹消されるのではという恐怖、将来の不安、丑松の人生で心から幸せを感じることはなかっただろう。
それこそ、偽りない自分でいたらどんなに楽か、秘密を持たずに堂々と生きていきたいと、打ち明けたいと鬱勃する姿が何度も見られる。
そんな苦悩の精神を背負った丑松の唯一の救いであったのが、猪子蓮太郎の著書だったのだろう。
 
 
なぜ僕は自分が人間であることに気づいてしまったのだろう。なぜ僕は人間なんかに生まれてきてしまったのだろう。
 
 
ここに出て来る穢多と呼ばれる人物は、みな質素ながらコツコツ真面目に生きている人格者に見える。そうではない人、いわゆる穢多と呼ばれない人物は、嫉妬や陰謀があったり、人倫上、徳上の破壊があるように見える。ただし、その中でも貧民や労働者など下層人物には、酒飲みでも何でも同情を誘うように描かれている。
ここでは、校長、寺の住職、政治家候補など、いわゆる立場が高いとされる人間や金持ちが悪とされているようにも見えてくる!?
 
 
教育者は教育者を忌む。同僚としての嫉妬、人種としての軽蔑
 
 
教育者でなくとも、同僚を忌むことはあるのだろう。
少し前までは、パワハラ、ブラック企業なんて普通だったし、自分もそんな中で働いて、根も葉もない噂を立てられたり、くだらない嫉妬されたり、色眼鏡で見られたり、ストレスてんこ盛の時もあったけど、現在はほぼフリーへ転身したようなものなので、今のところは煩わしい人間関係、それこそ上記引用のような、同僚を忌むとか嫉妬とか、そういう面倒なことはない。けれど、社会にこういう現象はまだ存在してるんだよね。
最近は、すぐに〇〇ハラになるし、多様性がどうとか言ってるし、昔よりはだいぶマイルドになってる気はするけれど、繊細な人も増えていそうだし、色々とうまくいかないこともあるのかな。
 
 
ところで、最後の最後、丑松は突然アメリカへ行く決心をしちゃったけれど、、

人生に苦悩したら、アメリカやフランスなど外国へ行くのが島崎藤村の解決策なのかな。。

『新生』参考など。

 

でも、素性を明かした丑松のこととを変わらず思い、彼のために熱い涙を流してくれた女性をやっぱり置いてっちゃうのね…。私も連れてって!なんてなかなか言えない時代。

…でも現代だって女性は受け身がち?現代の男性も受け身傾向にある最近、攻めより受け身の方が楽だし、肩透かし食らったら心がイタくなりそう? なにかと難しいのかな、なんて思うわけデス。

 

 

 

 

藤村が『夜明け前』を執筆していた宿♨️
改築されていますが、
大正時代の建物で文化財となっています。