比較で生きる人間 | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

 

人は比較しながら生きている。誰かより裕福だから幸福になり、昨日より上手にできないから不幸になる。明日は今日より天気がいいという予報が出れば嬉しくなり、100年前ののどかな暮らしが失われた現代を嘆く。


 

比較をやめたらどうなるだろう。今この時、生きている瞬間だけを感じる。そうしたら何か変わるだろうか。より多くの幸福が得られるのだろうか。


 

比較をやめたら、比較することによって得られる幸福と不幸はなくなり、比較なしでもともとある幸福と不幸だけが残る。未来と過去はなくなり、全て現在になる。記憶も予測もない。より良くなろうという努力もなくなる。そうなると、人の生存の可能性は非常に少なくなる。過去から学ぶこともないし、未来を用心することもなくなるからだ。


 

もともと、宇宙が1から2になった瞬間に比較は生まれ、比較という波でこの世界が形成されている。比較をなくすることが不可能だとすれば、意識の中の比較の度合いを適度に保てば幸福は最大になるということなのだろうか。


 

徳を積んで悟りを開いた人も、隣の芝生の青さに一喜一憂する人も、この世界に住んでいる限り、五十歩百歩ということになる。比較に生きるのは人間や生物だけではない。宇宙のどこかで、小惑星が恒星に近づいているのはその方がそうでないよりも法則に叶っているからだ。逆に遠ざかっているのはその方が自然だから。あらゆる存在は比較の中で存在する。存在自体が比較でできている。この比較の最も顕著な例が人間になる。


 

比較は善悪を超えて存在する。そこに人がかかわると、様々な感情が生まれ、真実がゆがめられる。個人によっても、時代によっても、比較の度合いは変化し、最大の幸福を長く続けるには、上手なコントロールが必要だ。多くもなく少なくもない比較。どのくらいのレベルが適切なのか、それを見極めるには経験と深い思索が必要なように思われるが、実は簡単な方法がある。


 

それは信念だ。何かを強く信じることで比較のレベルをその人の最善のレベルにすることができる。信じることの対象は唯一無二のものでもいいし、多数が常に入れ替わっても構わない。個性に合わせて好きなものを信じればいい。


 

信念は比較を容認しながら、比較の多すぎ少なすぎを是正する錨のような役割をする。なぜなら信念は非常に個人的で客観性がなく、妄想の元にもなるので、比較しすぎによって傷ついた心を癒し、信念はまた行動の強力な原因なので、少なすぎる比較を増幅させるからだ。


 

変化する信念は、信念とは言わないのではないか。いや、変化しない信念などあるだろうか。人が年を取って心も体も変化するように、信念もそれに合わせて変わっていく。同じものをずっと信じていると錯覚しているだけで、客観性に乏しい「信じる」という行為は自分の都合のいいように変わり続けているのだ。


 

信念は善良で社会的に尊ばれるものだけではない。危険な信念や迷惑な信念は数限りなくある。しかし強く信じている者は幸せである。強く信じていた者が不幸になるのは、その信念が間違いだと気付いた時、信念を変えられず、何も信じなくなった時だ。


 

私はテロリストや差別主義者を認めないが、彼らには彼らの信念による幸福がある。彼らに信念がなくなった時、世界は平和になる。ただ、人を傷つけるまで行動力を高めた人間は、精神的な病気でない限り、必ず強い信念を持っている。その信念をくじくのは容易ではないと思う。


 

人は本能的に不安定な比較で生き、何かを信じた時安定した幸福を獲得する。