老子 | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

老子は何もするなと言います。

何もしなかったころが、私の一番幸せな時だったということは間違いありません。それは今にも当てはまります。今、何もするのをやめたら、一番幸せな自分を即座に獲得できます。

厳密に言って、完全に何もしなかったら、死んでいるのと同じです。息をするのをやめたら死にます。ちょっと待ってください。息をしないというのは、努力が必要です。息をしない方が息をしているより「何かをして」いるような気がします。何もしないというのは「(無理なことは)何もしない」ということなんだと思います。世界一周旅行をしたくてたまらないのに、それをせずに我慢するのは、世界一周旅行をする行動力に勝る力でそれを止めているわけですから、世界一周旅行以上のことをしているのと同じです。

内なる自然に逆らわず、理論、常識、規則、世間体にとらわれて自然な状態に手を出してはいけないと、老子は言っているんだと思います。内なる自然が「道」なのかどうか、それは分かりません。

ただ、老子はその「道」が名づけられないものだと言っています。しかも、そんな名づけられないものに従うように言うのです。「道」を内なる自然だと明言せず、「内なる自然に逆らうことは何もするな」と言わないで、ただ「何もするな」と言った真意は何でしょうか。さっと読んだだけでは、ただの神秘主義じゃないかとも思えます。

その真意は、常識をひっくり返そうとしたんだと思います。内なる自然を道と呼ぶのではなく、道を念頭に置いて内なる自然を感じよ。内なる自然を感じてそれを邪魔するなというのではなく、何もしないということを念頭に置いて内なる自然を感じよ。と言いたかったんだと思うのです。

具体例を挙げると分かりやすくなります。突然ネットがつながらなくなったとしましょう。無線ランがおかしいのかもしれないし、回線が混雑しているのかもしれない。サーバーの不具合かもしれません。パソコンを再起動すれば元通りになる可能性もあります。これに反応して自分は、まず内なる自然の声を聴いて対応するとしたら、ルーターの接続を確かめに行ったり、パソコンのトラブルシューティングを見て対処しようとするでしょう。その声に従うことが「道」であり、「(内なる自然に反することは)何もしない」ことだとしたら、私は家中を動き回り、十数分間パソコンで調べたりするでしょう。

逆に「何もしない」ということを先に考えてから内なる声を聞けば、「しばらくこのままにしておこう。状況が変わらなかったら、その時また考えよう。」ということになり、パソコンでネットを使わない作業をするか、パソコンから離れて散歩に出たりするかもしれません。

つまり、老子はこう言っているんです。「自然は何も考えない。ただ行い、ただその行いをやめるだけだ。人間は違う。しかしその違いが固執となって、人の世界を自然から分離させてしまっている。世界と調和した生き方をするには、内なる自然の声に耳を傾けることだ。しかしあなたが内なる自然だと思っているのは、人の作った規則や、しがらみに影響された自然だ。だから本当の自然(道)をまずよく見てそれから本当の内なる自然を発見するがよい。」

つまり、本当の自然を良く見て、自分の中の自然を見直せ、ということです。人間界に影響された自分の中の自然は往々にして、やりすぎてしまうことが多い。だから、まず何もするな。それから良く見極めよ。ということですね。