「絶滅」と「根絶」

2021.06.23

 

 

ある工事の現場に「・・・重機災害の絶滅」との言葉を書いた横断幕が掲げられていることに気づいた私は、その表現に違和感を覚えた。「絶滅」より「根絶」の方がふさわしいのではないかと思ったのである。

広辞苑第7版を繙くと絶滅の項目の語釈として

①滅ぼし絶やすこと。絶え滅びること。

②ある分類群のすべての個体が消滅すること。→大量絶滅。

一方「根絶」の語釈として、根本からなくなるようにすること。ねだやし。根こそぎ。「飲酒運転を――する」と記述されている。

「ーーーが絶滅する」とは言うが、「---が根絶する」とは言わない。「絶滅」するという場合、絶滅の対象物は、当の絶滅するものそのものである。つまり絶滅するものが主語となっても、目的語として使うことに私は抵抗を覚える。

「根絶」の言葉を使うとき、「根絶」するそのものは、目的語とはなっても主語とはならない。「ーーーを根絶する」という文の主語は主に人間である。根絶にはその言葉を使う人間の意思が含まれるのではないだろうか。すなわち絶滅は自動詞として根絶は他動詞として使われるのではないか、と私は考えたのである。

 

水域の画像のようです

新明解さんには「洪水」とは「大雨や雪解けなどのために、河川の水があふれ出ること。流域の田畑や家屋などに被害を与える元となる。何かが一度にどっと出(回)る意に持ち入れれる。」との語釈が与えられいる。テレビから垂れ流されるコロナ情報の洪水に私たちは部防備に晒され続けられている。毎日のコロナ情報は、テレビの向こう側にいて情報を操作する人々は、なるべく陽性者の数を過去最高であることを強調したいらしい。最高でなければ、何日ぶりに○○人を超えたとか何日か連続で●●記録していると表現する。

 

十年前の東北の大津波の際は、メディアは津波の映像を連日連夜映し出した。いつまでこんなことを続けるつもりだろう。コロナの陽性者の絶対数は語られるが、PCRの検査数は語られない。検査数を分母にとり陽性者数を分子にとれば割合がわかるはずである。なのに割合は報道されない。100件のPCR検査が行われ5件の陽性者であれば、陽性者の割合は5%である。10000件の検査が行われ、そのうち500人の陽性者があればこれも陽性者の割合は5%である。陽性者の割合は変わらないが陽性者の数は5人と500人とでは随分と受ける印象は異なる。極端に言えばこんなことが毎日報道されているのだ。

 

あるニュースキャスタは「正しく恐れましょう」と言った。恐れることはよいとしても、わしたちは正しく恐れるだけの判断材料を与えられているのだろうか。インターネットで獲得する情報とテレビのワイドショーから垂れ流される判断材料は随分と異なる。というより正反対の情報であることもある。

 

 


「その指導、書面にしてください!」

1、お役所の窓口で何か言われたとしましょう。それが納得できないとか理由を知りたい場合どうしたらよいかお話ししましょう。

そのようなときは、
「今の書面にしてください」または「その指導、書面にしてもらえませんか」
と言いましょう。

2、行政指導とは、行政手続法の規定によれば「特定の者に一定の作為又は不作為を求める指導、勧告、助言その他の行為であって処分に該当しないもの」とされてます(行政手続法2条6号)。

行政指導かどうかわからなくても、とにかく「今の書面にしてください」と言えば、役所はそれが行政指導に当たれば書面にする義務があると言えます。ただ、多少の例外はありますが、とにかく「今の書面にしてください」という価値はあると言えます。

3、行政指導は、「・・・行政指導の内容があくまでも相手方の任意の協力によってのみ実現されるものであることに留意しなければならない(行政手続法32条)。とあります。この「任意の協力にのみによって」という点が大事な点です。役所の人が言うことが行政指導なら、それはあくまでその指導を受ける側の市民、町民、村民がその行政指導に従う意思がないのであれば、従う必要は法的にない、ということです。

4、「・・・行政指導に携わる者は、当該権限を行使し得る旨を殊更に示すことにより相手方に当該行政指導に従うことを余儀なくさせるようなことをしてはならない」(行政手続法34条)とあります。

加えて、行政手続法には「行政指導に携わる者は、その相手方に対して、当該行政指導の趣旨及び内容並びに責任者を明確に示さなければならない。
2 行政指導に携わる者は、当該行政指導をする際に、行政機関が許認可等をする権限又は許認可等に基づく処分をする権限を行使し得る旨を示すときは、その相手方に対して、次に掲げる事項を示さなければならない(行政手続法35条)。
一 当該権限を行使し得る根拠となる法令の条項
二 前号の条項に規定する要件
三 当該権限の行使が前号の要件に適合する理由」
という規定があります。

5、上記4の書面要求はあまり使われていないのが実情です。行政指導にきちんと対応、時には対抗するためには重要な制度と言えるでしょう。

 

すべての権力は腐るというのは、

決してすべての権力が腐ることそのもののことを言うのではない。

むしろ、

権力は、

腐るかもしれないから、

その時に備え

あらかじめ策を講じることが大事である

ことを言うのである、と私は思う。

時に、

慢心や傲慢などが言葉の端々に現れるのである。

周りの者はそれらに気付いても、

厄介なことに、

権力者本人は気付かないことが多いのである。

慢心をリーダーシップと取り違え、

傲慢には、全く気づくことがない。



先日の投稿では阪神・淡路大震災について触れた。当時映し出されたテレビの画面はひどいものだった。ひどいどころの騒ぎではなかった。何もしない、何もできない政府。政府の危機管理が全くできていなかったことが如実にテレビからリアルタイムで伝わった。このような場合にも公は自助を強調するのだろうか。

このような災害時にも政府や自治体は自助を持ち出すのだろうか。いつごろからか、公は自助を強調し出した。自助とは平たく言えば、自己責任のことである。目の前にいる被災者にも自助だから、とい言うそうな始末である。

少し、立ち止まって考えてみよう。できるだけ、皆さんができることは、皆さんがしてください、という意味ならば、理解できるが、現に公助を求めている被災者に向かって、あなたは自助をしなかったから、公助は受けられないとでも言うのだろうか。

昨今、自助、共助、公助に優先順位をつけているように僕には思われる。自助を声高に唱える公は、公としての責任を放棄しているのではないだろうか。こういう意味において、公が自らの責任を縮小しようとするのであれば、ぼくは、これに対しては異を唱えたいと思う。自助を優先するという前提に立った公助はどのような思想に従って設計するつもりなのか、詳らかにする義務が公にはある。公は最大限の公助を行う責務がある。最大限の公助では、間に合わないのであれば理解できなくもないが、自助を奇禍として公助を疎かにすることは許されない。

発災時には、場合によっては自助よりも公助が必要な場合が存在するのである。つまり、ケース・バイ・ケースなのである。これを考慮することなしに、ただやみくもに自助が優先するなどという防災や発災時の考え方をするべきではない。公の役割を縮小するために自助を言うのであれば、それは、考え違いである。

もちろん、私は、自助を全く否定するつもりは無い。どうして自助を公助より優先させるような空気を作り出すのか。自助を公助より優先させる哲学は何なのか。それを明らかにしていただきたい。仮に、自助をしない者に対して、公助を受ける立場にないと公が考えるのであれば、公には確固とした哲学がなければならない。自助が重要であることは否定できないが、公助が重要であることも否定できないのである。

2019.12.27

 

無駄という言葉を広辞苑で引くと①役に立たないこと②益のないこと、との語釈が載っています。無駄は悪だという考え方が今の世の中には蔓延しているのではないでしょうか。余裕や遊びを無駄であるという間違った言い換えをして巧妙にすり替えているのかもしれません。そうすることによって、人々は余裕を無くしていくことでしょう。

喫茶店で煙草をくゆらせながら何かを考えることもなく、ゆったりとした時間の流れにわが身をまかせるという無為の営みを過ごすことさえままならない世の中になりつつあります。

ネジをボルトにスムーズにねじ込むには、それらに互いに遊びがなければなりません。人間は、立ち止まって考えることをしなければ、マニュアル人間になってしまいます。また、指示待ち人間になってしまうこともあるでしょう。

無駄を徹底的に削げば人は余裕を無くします。時間に追われている人は、自分の時間を無くしてしまいます。そんな世界に生きる人には、閑暇の欲求さえ満たされることが難しくなります。

ミヒャエル・エンデが著わした「モモ」は、時間の「無駄」つまり、時間の「余裕」を時間銀行に「預ける」という架空の物語で、そのような社会の悲劇的な世界を紡ぎ出しています。

「モモ」には、
『時間節約こそ幸福への道!
時間節約をしてこそ未来がある!
君の生活をゆたかにするためにーー時間を節約しよう!』
との言葉が逆説的に綴られています。

これは、本当に架空の物語りでしょうか。

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2019.12.26

 

上の写真は今朝の中日新聞22面にある『加齢と車 どう向き合う①踏み間違い事故相次ぐ』との見出しがついた記事です。

この記事の二段目に、
「警察庁が今年上半期(1~6月)の自動車による交通死亡事故を分析したところ、ブレーキとアクセルを踏み間違えた事故は、75歳未満の0.7%に対し、75歳以上は16倍の11%を占めた」
との記述があります。

そして、この記述の元ネタにあたる警察庁のデータ(グラフなど)が、下の写真(一部、筆者の落書きがある)です。

このデータに基づけば、以下のようにも言えます。すなわち、
「警察庁が今年上半期(1~6月)の自動車による交通死亡事故を分析したところ、ブレーキとアクセルを踏み間違えた事故は、

75歳未満の調査不能だった42件を含め75歳未満の運転者による死亡事故件数全体の922件のうち75歳未満の運転者による事故は6件だったのに対し、

75歳以上の調査不能だった26件を含め75歳以上の運転者による死亡事故件数全体の149件のうち75歳以上の運転者による事故は17件だった。」

従って、ブレーキとアクセルを踏み間違えた事故件数で言えば、
17/6=2.83(倍)
となります。

確かに、
17/149=0.11(11%)
6/292=0.0065(0.7%)
であり、
0.11/0.007=15.7(倍)

となり、この新聞記事にあるように百分率で示せば16倍といってもよいかもしれませんが、この記事の文章の主語は「ブレーキとアクセルを踏み間違えた事故は」とあります。この記事を読んだ人は、「16倍」という数字をどのように受け止めるのでしょうか。

 

写真の説明はありません。

 

 

 

 

 

 

 

いま、人生の峠を越えて思うことは、いままでぼくが生きてこられたことに恩返しをしたいということ、そういう気持ちが少しだけれどあるのかな。

 

私は行政書士であり、行政に対する許認可や届出書の作成を生業としている。また、それに付随する行政庁とのやり取りも行う。その際、許認可等に係る法令・通達を読んで、いつもとは言えないが、許認可庁と対峙することもある。

 

そのようなときに電話やメールでのやり取りは勿論のこと行政庁の法令の解釈についての私の主張を述べることもある。 その際、行政庁の職員の親切・丁寧・誠実な対応に感謝することもあればそうでないこともある。

 

行政庁の職員に親切に教えてもらうことも多々あるが、職員の業務知識の不足・職員のうちの誰が責任ある対応・解答をしてくれるのかについて悩まされたりすることがある。 行政庁の職員は、自己の職務上のことには専門家であるはずである。このことは私の勝手な理想像なのだろうか。そうでないことを望むが、手元の法令集を繙いてほしい。分からないことはわからないと言ってほしい。知ったかぶりをされるよりよほどいい。

 

私は、行政庁の職員は、法令を果たして読んでいるのだろうかと疑問に思うことがある。特に「行政手続法」や、各市町村で制定している「行政手続条例」を果たしてご存じなのだろうかと疑問に思うことはしばしばある。私には、行政手続法及び行政手続条例が行政庁において軽視されているように思えてならないのである。審査基準の未整備は典型的な例の一つである。

 

極端なことをいうなら、行政手続法及び行政手続条例の存在すらも不知の行政庁の職員もいる。行政手続法及び行政手続条例は、行政庁の業務を横断的に行政手続きの面から定めるものであり、行政手続法及び行政手続条例は行政庁の職員が守らなければならない法令なのである。

 

各担当課の事務について直接所管する法令ではないが、だからと言って、これが行政手続法及び行政手続条例の存在の不知の理由にはならない。行政手続法及び行政手続条例は行政庁が守らなければならない法令なのである。

ぼくは、生きる価値と意味とは、その意味するところが違うように思う。

「生きる価値ががなくても生きる意味はある」とは言える。

価値はゼロであると言っても、ゼロが意味を持たないことにはならない。

気温が摂氏0度であっても0は意味を持つ。

 

仮に、価値が意味という集合の部分集合ならば、価値がないものは意味がないものということはできない。 

 とは言え、私にとっては、価値と意味の哲学的意味やその意味の相異については不知である。

意味について考えると煮詰まってしまって考える価値を見失ってしまう。

価値について考えると生きる意味すら危うくなってしまうことがある。

 

 どちらにせよ、意味や価値について考える時間があるなら自身の手を動かすことを開高健は 「知的経験のすすめ―何んでも逆説にして考えよ (青春文庫)」の中で勧めている。

行動するからこそ見えてくるものがあるのである。  

もし、避けることのできない壁に遭遇したら、とりあえずその壁をXとし、進んでみることを考えてみるのが良いのかもしれない。

Xはしばらくすればわかってくることもある。