最近誰かと「出る杭は打たれる」は日本の文化だという話をした。
目立ちたくないのだという。
個性を出せないのだという。
世界は面白い。
僕は20年日本で生きて、もうこれ以上住む必要はないなと思っている。
「日本にいると息苦しい」
という表現を僕はよく使う。
もっぱらの日本人だし第一言語も日本語だしホームも日本。
それでも息苦しいと思ってしまう。
脳みそがちゃんと動き出した21歳~22歳にかけて僕はカナダ留学に1年弱行った。
どうしても英語を身に付けておきたかったから。
そこで僕はいろんな「生き方」を目の当たりにした。
脳みそがスパークした。
僕のインターン先の社員はみんなユダヤ人だった。
頭にキッパをつけ、コーシャ料理しか食べなかった。そんなコーシャにはピザもあればポテチまであった。
昼間オフィスに遊びに来る他のユダヤ人。真夏なのに民族衣装のまっくろのスーツは絶対脱がない。
トロントのプロイスラエルのイベントには云万人の白人が参加した。アジア人は僕以外に1人しか見かけなかった。人種のるつぼのトロントでは異様な光景だ。世界はパレスチナに同情するが彼らの故郷がイスラエルであり、家族友達がいるのはイスラエルなんだと思うと僕はインセンシティブなことは言えない。
僕はイスラエルの国旗を身にまとい着ぐるみを来て踊りまくった。社長に「会場で一番輝いてたのはマサだよ」と言わせた。
この社長Jimは破天荒だった。トロントのIT関係者で彼を知らない人はいなかった。弁護士からのIT系だが、モロッコ生まれカナダ育ち、20代でブラジルにはまり、ポルトガル語もしゃべり仕事まで取ってきてる。ブラジルが好きすぎて奥さんもブラジル人だ。
僕の元カノも脳みそをスパークさせてくれた。チャイニーズだが中米パナマ生まれ育ち。18歳でカナダの大学に入学し当時23歳だった。弟も似た経歴。彼ら兄弟の会話は3か国語がほぼネイティブレベルで飛び交っていた。
国連公用語を3つも操るも海外には一切興味がないという。日本人から見れば「もったいない」の一言だが、彼女には国内も国外も大してないようだった。大学を卒業したらアメリカかカナダからへんで働くという。
アジアンがアジアンの少ない国で生きていくのはしんどい。彼女の昔の写真では彼女だけ肌の色が違う。でもカナダではアジア系とよく一緒にいるようだった。
「マイノリティを経験した人は強い」
これも僕がよく言う言葉だ。白人社会においてアジアン男子ほど無条件で下に見られる人種はいない。英語圏に英語が出来ない奴がいる価値もない。そこには出来る仕事も殆どない。日本にいるとネイティブで同じ民族の僕は絶対的マジョリティで世界はゆるぎなかった。しかしカナダには自己主張しないと生き残れないマイノリティという現実が待っていた。
頼るは神でも身内でもgoogleでもなく自分自身しかいない。別に治安のいいカナダで死ぬわけでもないが、僕の立ち振る舞いや体形から表情から、現地の大学生の輪の中で空気になってしまわないよう鍛えられた。
その後の西アフリカ滞在を通して更に直接向かったバンコク、プノンペンでは僕を日本人と思って話しかけた人はいなかった。日本人のアイデンティティは素晴らしいし誇りだが、時にはそれが無意味な空気同然になってしまうこともある。
最後にシエラレオネの地方都市の更に郊外で出会った中国人。
もう名前も憶えていないが、僕はアフリカの大地で中国人の同胞の優しさに涙した。突然訪れた僕を彼は歓迎してくれ、部屋に招き入れ、中華料理をわけてくれ、お茶をいれてくれた。
もうアフリカに住んで4年だという彼。家族の話をし、彼のパソコンにはいっていた日本のAVを一緒に見た。ブラックの中でズタボロになっていた僕のメンタルはだいぶマシになった。人を信用していいことを思い出させてくれた。
こんにちは。
28年にも及ぶフンセン首相率いるCPP(人民党)による独裁政権が続くカンボジア。7/28(日)は紛争後の大きな分岐点となる下院選選挙でした。最大野党はCNRP(救国党)。元々の議席数は全123議席中はCPPが90議席、CNRPが29議席。
事前の選挙活動ではプノンペンにおいては圧倒的に野党優勢。毎日のようにチェンジと叫ぶ野党サポーターの若者たち。おかげで街中が渋滞していました。しかし一方農村部では依然として与党が強いようです。
しかし今回の特徴はアラブの春を彷彿とさせるソーシャルメディアの力。プノンペンほか大都市の多くでは「チェンジ」を唱える最大野党を応援する若者の声が多く見られました。Facebookを主とした情報が入りやすい都市部ではフンセン首相の腐敗が認知されていたためです。1つはベトナムがカンボジアの土地を不法占拠している点。フンセン首相はベトナムから支援を受けているため黙認しています。もう一つは中国企業等の土地の買い占めとそれによる住民の強制立ち退き。そのため野党が勝った場合はベトナムとの戦争が…http://cbb-cambodia.org/election/
こんにちは!法政大学3年マサです。
最近同い年年下で心から「すごい」と思える人たちにチラホラ会えて幸せです。
「中等教育×チャリンコ」を活動の柱に掲げるCBBですが実はこれといった団体説明がネット上に転がってないんですよね。よく言われます。
動機
NGO Cycle Beyond the Borders (CBB)は昨年6月に
バックグラウンドとしての「カンボジア」
問題意識としての「教育」
この二つが僕と同じ学科のたいちとで重なった所から想いを形にしたいと始まりました。
活動内容
僕らは主に中学進学を控えた小学6年生に「自転車」を提供しています。
カンボジア農村部(現在はコンポンチャム州バティエイ郡トムノ地区・トゥコウ地区)の貧困家庭で、中学までの距離が遠く(片道徒歩30分以上が目安)、自転車が購入できない家庭の子どもが対象です。
なぜ自転車かというと、
①カンボジア政府の政策で小学校は1村に1校あります(それでも700校近く足りてないと言われるby2008年度教育省データ)。それが中学になると1地区(3~5村)に1校。ここで必然的に距離が片道徒歩1時間、1時間半となる子どもが沢山います。
②カンボジアの農村の子どもは家の手伝い(家事・農業・漁業・マーケットに物を売りに行く)を多くしており重要な労働の担い手です。そんな彼らが往復3時間もかけて学校にいき更に疲れて家の手伝いも出来ないとなると現実的に親から見て好ましくない。
③更に学年が上がっていくに連れて、テストの際の「コピー代」と、同じ先生が同じ生徒たちに対してテスト問題を教える「課外授業代」が増えていきます。額的には中学時が月$4周辺。
④この数ドルが農村の貧困家庭では払えない。多くの家庭では明日食べるご飯を買うお金を稼ぐ、そんなレベルの生活を送っているからです。
⑤更にそんな子どもたちの親は教育を一切受けていないか、小学校中退が主。中学に進学するような「教育の価値」は仮に分かってても、そんな5年後10年後のことに投資する余裕はない。
⑥その通学距離・時間という物理的要因と、経済的要因が相まって多くの子どもが中学進学時に退学してしまいます。
すると農村部では本や新聞が出回っておらず、彼らが20歳くらいになった頃彼らは字が読めない「非識字者」になってしまいます。
すると、いわゆる「それなりの職」に就くのが難しくなります。
彼らはまた農業等に低所得の職に付かざるを得ず、彼らのその子どもまで抜け出せない。
そんな不の「サイクル」が存在するのです。
(個人的な動機としては、生まれた国が違うだけで人生の選択肢に差があることにすごく違和感があり、変えたいと強く思っています。)
⑦そこで「自転車」を提供することによって、
まず距離・時間という障害を取り除き、子どもたちは中学に通いながらも家の手伝いを十分に出来ます。また去年1年間の月1の継続インタビューによって子どもたち自身のモチベーションにも大きく寄与していることも分かりました。また仕事の際にも農作物を運ぶのに大きく役立っています。
同時に月$3の奨学金も提供し教育費の一部を支援しています。
現状
そんなで昨年1年目は5人(効果測定をするため)に。
今年2年目は国道から更に一つ奥の大人の識字率が50%以下のトゥコウ地区に入りました。
そこの小学校の校長先生と協議し、WFPから食糧支援を受けている5/6年生12名の家族に一件一件回りながらインタビュー。
借金から家族の学歴、月に何日ほどご飯が足りなくなるか等聞き、対価として文房具のプレゼントをしました。
その中から本当に自転車が必要に思われた8名の子どもに支援。昨年同様誓約書を交わし、村長さん校長先生、親御さん、子どもたちを集めて式を行いました。
それと別に給食支援、英語教育支援でも少し活動をしています。
将来
1年目に支援した子どもたちのうち3人は今中学2年生です。
彼らが望めば高校進学、大学進学も支援するつもりです。
もし大学に行ければ週1でアルバイトとしてCBBの現地職員になってもらえたら。
約10年後の大学卒業後、彼らが「自発的に」彼らの次の世代の子どもを支援したいなと思ってもらえるような、そんな大きな「サイクル」を作っていけたらと思っています。
まだ2年目の小さな団体ですがこれからも「究極の現場主義」を貫いて精進していきます。
興味ある方一緒にやりましょう。
また日頃から全てにおいてお世話になっているNGOカンボジアに学校を贈る会(ASAC)様の存在がなければ僕らの今の活動はありません。本当に感謝しています。
最近同い年年下で心から「すごい」と思える人たちにチラホラ会えて幸せです。
「中等教育×チャリンコ」を活動の柱に掲げるCBBですが実はこれといった団体説明がネット上に転がってないんですよね。よく言われます。
動機
NGO Cycle Beyond the Borders (CBB)は昨年6月に
バックグラウンドとしての「カンボジア」
問題意識としての「教育」
この二つが僕と同じ学科のたいちとで重なった所から想いを形にしたいと始まりました。
活動内容
僕らは主に中学進学を控えた小学6年生に「自転車」を提供しています。
カンボジア農村部(現在はコンポンチャム州バティエイ郡トムノ地区・トゥコウ地区)の貧困家庭で、中学までの距離が遠く(片道徒歩30分以上が目安)、自転車が購入できない家庭の子どもが対象です。
なぜ自転車かというと、
①カンボジア政府の政策で小学校は1村に1校あります(それでも700校近く足りてないと言われるby2008年度教育省データ)。それが中学になると1地区(3~5村)に1校。ここで必然的に距離が片道徒歩1時間、1時間半となる子どもが沢山います。
②カンボジアの農村の子どもは家の手伝い(家事・農業・漁業・マーケットに物を売りに行く)を多くしており重要な労働の担い手です。そんな彼らが往復3時間もかけて学校にいき更に疲れて家の手伝いも出来ないとなると現実的に親から見て好ましくない。
③更に学年が上がっていくに連れて、テストの際の「コピー代」と、同じ先生が同じ生徒たちに対してテスト問題を教える「課外授業代」が増えていきます。額的には中学時が月$4周辺。
④この数ドルが農村の貧困家庭では払えない。多くの家庭では明日食べるご飯を買うお金を稼ぐ、そんなレベルの生活を送っているからです。
⑤更にそんな子どもたちの親は教育を一切受けていないか、小学校中退が主。中学に進学するような「教育の価値」は仮に分かってても、そんな5年後10年後のことに投資する余裕はない。
⑥その通学距離・時間という物理的要因と、経済的要因が相まって多くの子どもが中学進学時に退学してしまいます。
すると農村部では本や新聞が出回っておらず、彼らが20歳くらいになった頃彼らは字が読めない「非識字者」になってしまいます。
すると、いわゆる「それなりの職」に就くのが難しくなります。
彼らはまた農業等に低所得の職に付かざるを得ず、彼らのその子どもまで抜け出せない。
そんな不の「サイクル」が存在するのです。
(個人的な動機としては、生まれた国が違うだけで人生の選択肢に差があることにすごく違和感があり、変えたいと強く思っています。)
⑦そこで「自転車」を提供することによって、
まず距離・時間という障害を取り除き、子どもたちは中学に通いながらも家の手伝いを十分に出来ます。また去年1年間の月1の継続インタビューによって子どもたち自身のモチベーションにも大きく寄与していることも分かりました。また仕事の際にも農作物を運ぶのに大きく役立っています。
同時に月$3の奨学金も提供し教育費の一部を支援しています。
現状
そんなで昨年1年目は5人(効果測定をするため)に。
今年2年目は国道から更に一つ奥の大人の識字率が50%以下のトゥコウ地区に入りました。
そこの小学校の校長先生と協議し、WFPから食糧支援を受けている5/6年生12名の家族に一件一件回りながらインタビュー。
借金から家族の学歴、月に何日ほどご飯が足りなくなるか等聞き、対価として文房具のプレゼントをしました。
その中から本当に自転車が必要に思われた8名の子どもに支援。昨年同様誓約書を交わし、村長さん校長先生、親御さん、子どもたちを集めて式を行いました。
それと別に給食支援、英語教育支援でも少し活動をしています。
将来
1年目に支援した子どもたちのうち3人は今中学2年生です。
彼らが望めば高校進学、大学進学も支援するつもりです。
もし大学に行ければ週1でアルバイトとしてCBBの現地職員になってもらえたら。
約10年後の大学卒業後、彼らが「自発的に」彼らの次の世代の子どもを支援したいなと思ってもらえるような、そんな大きな「サイクル」を作っていけたらと思っています。
まだ2年目の小さな団体ですがこれからも「究極の現場主義」を貫いて精進していきます。
興味ある方一緒にやりましょう。
また日頃から全てにおいてお世話になっているNGOカンボジアに学校を贈る会(ASAC)様の存在がなければ僕らの今の活動はありません。本当に感謝しています。
ども法政3年マサです。
今までNGOスタッフの家を渡り歩いてきたが、第4の都市Makeniには正規オフィスがなくスタッフもいないためゲストハウスに(訪れてスタッフも団体も存在することが発覚したがHead officeとしては支援は数年前に断ち切ってるオフィスのようだ)。
Thinka Motel。
最安はshared bathroom singleでL.30,000だ。何もない部屋で問題はないがこれで約$7もするのでカンボジアのCapital guesthouseの安さが輝く。
しかしシエラレオネの他のどこの都市のそれより安い。西アフリカの宿は高い。
よく部屋に侵入してきた宿の子をパシャリ。
2日間プロジェクトフィールドに行くためNGOスタッフを待っているが客は僕のみ。やはりアジアンは珍しいそうでゲストハウス言えど利用者は現地のNGOスタッフやビジネスマンがメインのよう。
スタッフの1人。1年ほど前にある日起きたら首が激痛と共に曲がっていたらしく未だに痛むとか。ここでは何も出来ないそう。
オーナー含め結構な人数が住んでいるのだが、更に売春婦4人もそのうちの1部屋に住んでいた。この宿専属で道には切り出さないらしい。他の売春婦より品があるように感じた。宿のスタッフともみんな仲良しだ。
Sexをしたくないなんてことは理解されないらしく、金盗まれてガチで金がないと説得。宿のスタッフ含めみんなで楽しく写真撮影。過激になってくので見たい方は直接Twitterなりに連絡くださいw
このうち一人の子と仲良くなった。18歳でもうすぐ19だとか。基本シエラレオネの売春婦は年上っぽいが珍しい。そして驚いたのがこの宿のみんなは綺麗な英語を喋る。数少ないEducated peopleなのだ。
話を聞いてみると彼女Patriciaは高校を卒業して売春婦として5ヶ月働いてるとか。理由を聞いてみると住むとこも行くとこもないからと。将来何したいか聞いてみたら産婦人科のナースになりたい、けど学校に行くお金がない。という貧困の不の連鎖の象徴だった。ちなみにお値段は最安がL.30,000。これは最安なので提示価格は数倍だ。しかし貧困のため600円程度で体を売ってしまうアフリカの女性たち。やっぱこの世界の不均等狂ってる。
アフリカで売春婦と言うとみなHIV/AIDSを思い浮かべるだろうが彼女は毎月テストを受けてコンドームも使っているそう。現地の友達に聞いたところコンドームを使わないと値段は2倍近くだが全然ありだそうだが、彼女は知識をしっかり持っていて性病が多過ぎるから絶対コンドームは使うんだと。
そして彼女に聞かれた、本当にHIVの人なんてこの国にいるの?って。衝撃だった。NGOの各支部を訪れて、各街に分かってるだけ数百人いて、恐れてテストを受けない人が人口の殆どと知っていた。しかしstigmaのせいでみな基本的には隠して生活をしてる。朝晩薬を飲む以外は普通の人と何一つ変わらないHIV positive。一般人には、むしろHIVに身近な売春婦にでさえHIVの存在に疑問を持っていた。新たな現実を見れた貴重なトークだった。
ちなみに恋人間ではコンドームは厳禁だそう。女性側でさえも嫌うとか。しかしみな彼女を4人も5人も持っているような国でコンドームを使わないとはHIV患者が絶えない理由だ。それも相まってか20代前半のうちに多くの女性が子どもを授かっている。子どもは3人以下じゃないと面倒を見れないとeducated peopleの間では常識になっている家族計画も国全体で見れば少数意見だ。コンドームを使わない文化?性教育の遅れがこの国の貧困を不の連鎖から脱出させてくれない。アフリカで彼女を作る方はご覚悟を。
最後に一人旅の醍醐味のマーケットと街中で仲良くなった人たちを。
今までNGOスタッフの家を渡り歩いてきたが、第4の都市Makeniには正規オフィスがなくスタッフもいないためゲストハウスに(訪れてスタッフも団体も存在することが発覚したがHead officeとしては支援は数年前に断ち切ってるオフィスのようだ)。
Thinka Motel。
最安はshared bathroom singleでL.30,000だ。何もない部屋で問題はないがこれで約$7もするのでカンボジアのCapital guesthouseの安さが輝く。
しかしシエラレオネの他のどこの都市のそれより安い。西アフリカの宿は高い。
よく部屋に侵入してきた宿の子をパシャリ。
2日間プロジェクトフィールドに行くためNGOスタッフを待っているが客は僕のみ。やはりアジアンは珍しいそうでゲストハウス言えど利用者は現地のNGOスタッフやビジネスマンがメインのよう。
スタッフの1人。1年ほど前にある日起きたら首が激痛と共に曲がっていたらしく未だに痛むとか。ここでは何も出来ないそう。
オーナー含め結構な人数が住んでいるのだが、更に売春婦4人もそのうちの1部屋に住んでいた。この宿専属で道には切り出さないらしい。他の売春婦より品があるように感じた。宿のスタッフともみんな仲良しだ。
Sexをしたくないなんてことは理解されないらしく、金盗まれてガチで金がないと説得。宿のスタッフ含めみんなで楽しく写真撮影。過激になってくので見たい方は直接Twitterなりに連絡くださいw
このうち一人の子と仲良くなった。18歳でもうすぐ19だとか。基本シエラレオネの売春婦は年上っぽいが珍しい。そして驚いたのがこの宿のみんなは綺麗な英語を喋る。数少ないEducated peopleなのだ。
話を聞いてみると彼女Patriciaは高校を卒業して売春婦として5ヶ月働いてるとか。理由を聞いてみると住むとこも行くとこもないからと。将来何したいか聞いてみたら産婦人科のナースになりたい、けど学校に行くお金がない。という貧困の不の連鎖の象徴だった。ちなみにお値段は最安がL.30,000。これは最安なので提示価格は数倍だ。しかし貧困のため600円程度で体を売ってしまうアフリカの女性たち。やっぱこの世界の不均等狂ってる。
アフリカで売春婦と言うとみなHIV/AIDSを思い浮かべるだろうが彼女は毎月テストを受けてコンドームも使っているそう。現地の友達に聞いたところコンドームを使わないと値段は2倍近くだが全然ありだそうだが、彼女は知識をしっかり持っていて性病が多過ぎるから絶対コンドームは使うんだと。
そして彼女に聞かれた、本当にHIVの人なんてこの国にいるの?って。衝撃だった。NGOの各支部を訪れて、各街に分かってるだけ数百人いて、恐れてテストを受けない人が人口の殆どと知っていた。しかしstigmaのせいでみな基本的には隠して生活をしてる。朝晩薬を飲む以外は普通の人と何一つ変わらないHIV positive。一般人には、むしろHIVに身近な売春婦にでさえHIVの存在に疑問を持っていた。新たな現実を見れた貴重なトークだった。
ちなみに恋人間ではコンドームは厳禁だそう。女性側でさえも嫌うとか。しかしみな彼女を4人も5人も持っているような国でコンドームを使わないとはHIV患者が絶えない理由だ。それも相まってか20代前半のうちに多くの女性が子どもを授かっている。子どもは3人以下じゃないと面倒を見れないとeducated peopleの間では常識になっている家族計画も国全体で見れば少数意見だ。コンドームを使わない文化?性教育の遅れがこの国の貧困を不の連鎖から脱出させてくれない。アフリカで彼女を作る方はご覚悟を。
最後に一人旅の醍醐味のマーケットと街中で仲良くなった人たちを。
どもマサです!西アフリカはシエラレオネの頃の旅日記です。
Kono
実はKenemaが心地よすぎて1日沈没。第5の都市Konoへ。道が悪すぎてバイクじゃなきゃいけないと言われるルート。しかしバイクだと運良く2人で乗れてもL.50,000≒$12、且つ若干治安的に危ないとのことでミニバスL.40,000で。1日1台なので逃したらバイクしかない。
ギュウギュウに詰め込んで且つ上にも大量に縛り付けてある荷物と、運転席助手席に4人、後ろもギュウギュウのミニバスで2時間ほど待ち無事出発。乗るのに席が足りなくて大喧嘩するも詰め込みに詰め込んで解決出来るのがアフリカらしい。
しかし道が凄まじかった。東南アジアのどこの幹線道路とも比べ物にならないガタガタ、山の上り下り、雨季故のぬかるみ。100M進むのにどれだけ時間がかかるのだろう…徒歩orランニングと同じスピードで、かなりの短距離を6時間近く平らな道ほぼゼロで駆け抜けた。バックパックを背負ってバイクなんて絶対泥だらけ&振り落とされるのは必至だろう。ガチでこのKenema - Konoルートはオススメしない。
KonoではHACSAのスタッフ28歳Moreliaと他団体PORSHEの26歳Chrispinにお世話になった。後者の家に泊めてもらったがジェネレーターを回していて電気にアクセス出来て助かった。
ちなみにこの家が特別金持ちかいうとそうでもなく多くの家にテレビとソファだけは基本ある。
サブサハラだから、アフリカだから、そんなみんな貧困かというとそうでもない。
ちなみにこの家の水浴び場。まぁ何もない外だ。お金をかけるポイントは水回りではないらしい。
NGO HACSAとPORSHEの協力の元みんなで大ディスカッション大会。
こちらはincome generatingとしての養豚。ただ餌を何日も与えることが出来てないらしく、豚の前に人の食い物だという感じ。このプロジェクトは失敗の流れ。
こちらはパン製造。ただ小麦を練る機械をガソリンで回すため作るコストと収入が一緒でまだうまくいってないと。。
更に見かけるもの。
それは世界一悲惨と言われるシエラレオネの紛争の焼け跡。
10年前に終わったものの街中には焼け落ちた家、貧困のためそこにそのまま住んでる人を本当によく見かける。10軒に1軒かそれ以上の割合でまだそのまま残っている。他の都市では見えなかった紛争の現実。Konoの貧困は根強い。
最後にKono中心部から1時間かもっと歩いて田舎の親戚の家でパシャリ。みんな早くに子どもを授かり、人数も多く、あぁアフリカ…だった。家族計画の重要性に気づいてるのは都市部のeducated peopleのみという現実も。
ここ第5の都市ではあるものの電気はなく、全ての道路は穴だらけ、他の都市からのアクセスも壊滅的なため物価が高くいつもL.3,000で買えてた水もL.5,000。このアクセスのせいか貧困度が高い。街からそう離れなくても土壁のもろく小さい家をすぐ見かける。Konoにはホントにこれて良かった。
Kono
実はKenemaが心地よすぎて1日沈没。第5の都市Konoへ。道が悪すぎてバイクじゃなきゃいけないと言われるルート。しかしバイクだと運良く2人で乗れてもL.50,000≒$12、且つ若干治安的に危ないとのことでミニバスL.40,000で。1日1台なので逃したらバイクしかない。
ギュウギュウに詰め込んで且つ上にも大量に縛り付けてある荷物と、運転席助手席に4人、後ろもギュウギュウのミニバスで2時間ほど待ち無事出発。乗るのに席が足りなくて大喧嘩するも詰め込みに詰め込んで解決出来るのがアフリカらしい。
しかし道が凄まじかった。東南アジアのどこの幹線道路とも比べ物にならないガタガタ、山の上り下り、雨季故のぬかるみ。100M進むのにどれだけ時間がかかるのだろう…徒歩orランニングと同じスピードで、かなりの短距離を6時間近く平らな道ほぼゼロで駆け抜けた。バックパックを背負ってバイクなんて絶対泥だらけ&振り落とされるのは必至だろう。ガチでこのKenema - Konoルートはオススメしない。
KonoではHACSAのスタッフ28歳Moreliaと他団体PORSHEの26歳Chrispinにお世話になった。後者の家に泊めてもらったがジェネレーターを回していて電気にアクセス出来て助かった。
ちなみにこの家が特別金持ちかいうとそうでもなく多くの家にテレビとソファだけは基本ある。
サブサハラだから、アフリカだから、そんなみんな貧困かというとそうでもない。
ちなみにこの家の水浴び場。まぁ何もない外だ。お金をかけるポイントは水回りではないらしい。
NGO HACSAとPORSHEの協力の元みんなで大ディスカッション大会。
こちらはincome generatingとしての養豚。ただ餌を何日も与えることが出来てないらしく、豚の前に人の食い物だという感じ。このプロジェクトは失敗の流れ。
こちらはパン製造。ただ小麦を練る機械をガソリンで回すため作るコストと収入が一緒でまだうまくいってないと。。
更に見かけるもの。
それは世界一悲惨と言われるシエラレオネの紛争の焼け跡。
10年前に終わったものの街中には焼け落ちた家、貧困のためそこにそのまま住んでる人を本当によく見かける。10軒に1軒かそれ以上の割合でまだそのまま残っている。他の都市では見えなかった紛争の現実。Konoの貧困は根強い。
最後にKono中心部から1時間かもっと歩いて田舎の親戚の家でパシャリ。みんな早くに子どもを授かり、人数も多く、あぁアフリカ…だった。家族計画の重要性に気づいてるのは都市部のeducated peopleのみという現実も。
ここ第5の都市ではあるものの電気はなく、全ての道路は穴だらけ、他の都市からのアクセスも壊滅的なため物価が高くいつもL.3,000で買えてた水もL.5,000。このアクセスのせいか貧困度が高い。街からそう離れなくても土壁のもろく小さい家をすぐ見かける。Konoにはホントにこれて良かった。
ども、法政3年マサです。
西アフリカはシエラレオネでの一人旅日記続編です。
昼に第2の都市Boを出て乗合タクシーで第3の都市Kenemaへ。L.9,000。用心のため乗る前に運転手と仲良くなる。がまさかの1時間で着き早速NGOのスタッフに電話。案の定場所をうまく説明出来ずそこらへんのおっちゃんに現在地を説明してもらい合流。やはり安全で優しいシエラレオニアン。
早速バイクでオフィスへ。これが地味に遠い。看板もなし。というより部屋にも机と椅子以外何もなし。しかしこれで100名以上のHIV孤児、80名近くのHIVポジティブの管理をしているので驚きである。スタッフは5名。ここも全員ボランティアだ。
Kenemaで僕の世話をしてくれたのはHACSA Kenemaオフィスの責任者Vibbi。Boに引き続き御宅にも3日間居候させてもらった。凸凹道の先の先にある電気なしの小さな家に奥さんと奥さんの姉、両親がPLHIV(Positive Living with HIV)で預かってる子どもの4人暮らし。犬と猫と6人暮らしかな。
夜7時には周辺真っ暗闇になるが星が本当に明るい。そんな自然な家でのんびり過ごした。
初日はまず病院のHIVカウンセラーと話を。ここではstigmaは他のどこよりもマシだとか。そして街を散策しながらPLHIVsの家や職場を回った。
BoではHIV孤児にしか会っていなかったのでまた貴重な経験だ。
ここで感じたこと。それはHIV患者のほぼ全員が完全にそれを隠して普通の生活をしているという事実。Stigmaバリバリだった。見事にほぼ全員が隠していた。一人だけオープンな方がいて直接家に行くことが出来た。彼と奥さん、4人の子どものうち1人がHIVポジティブ。発覚は3年前で毎日薬を飲んでいるという。HIVが発覚したときどう思ったか聞いてみた。すると実は奥さんが発覚してたのを隠してた…というのが分かったらしく。
HIV、見えない脅威だ。みなが恐れて隠したがる。薬さえ毎日飲めば一般の人と何一つ変わらないのに。誤報が世界中で溢れかえってる。HIVが話題にさえならない日本どうなん?
2日目にはHACSA関係者で集合写真を取り、
僕が前に立ちHIVポジティブのメンバーやスタッフとディスカッション。1言目が「孤児が多すぎて支援が足りない…」という被支援者の声だった。それは僕がwhiteだからか。(アフリカではアジアンも白人も全てwhite)日本人だからか。言えば支援をもらえると思ってるのかそれとも本当に支援が必要なのか。しかしその日に食べるものにも困っている家庭の多さはリアルなようだ。
職業訓練所
またHIV孤児の子たちは教育費支援がないと学校に行くことは不可。一人$70で1年間学校に通うことが出来る。授業料、学校チャージ、制服、文房具など授業を受けるために必要なものを全て引っ括めてだ。実は100名以上の孤児の登録があるが支援が出来ているのは10名程度だけだというリアルな資金不足。
こう孤児孤児繰り返し言っているが日本ではかなり少数だろう。日本にも貧困、虐待から施設で暮らす子どもは多くいる。日本のそれを無視することは出来ないが、こう両方の親を亡くして孤児となった子どもで溢れかえっているこの西アフリカ。皆さんの目にどう映るだろうか。
Kenema。Boよりも人口は少ないが街の大きさ、モノの多さでははるかに優っていた。しかし車はすごく少ない。道がガタガタすぎてバイクでの移動が限界だ。電気もすごく不安定。マーケットは大きいがネットカフェや印刷の出来る場所など電気が必要なお店は全然なく、実際写真をプリント出来るお店も少ないくせに停電でout of serviceという自然な街。
Boとはまた一味違うのんびりした時間を家族と過ごすことが出来た。まぁ何かあるかと聞かれると何もないんだけどね。
西アフリカはシエラレオネでの一人旅日記続編です。
昼に第2の都市Boを出て乗合タクシーで第3の都市Kenemaへ。L.9,000。用心のため乗る前に運転手と仲良くなる。がまさかの1時間で着き早速NGOのスタッフに電話。案の定場所をうまく説明出来ずそこらへんのおっちゃんに現在地を説明してもらい合流。やはり安全で優しいシエラレオニアン。
早速バイクでオフィスへ。これが地味に遠い。看板もなし。というより部屋にも机と椅子以外何もなし。しかしこれで100名以上のHIV孤児、80名近くのHIVポジティブの管理をしているので驚きである。スタッフは5名。ここも全員ボランティアだ。
Kenemaで僕の世話をしてくれたのはHACSA Kenemaオフィスの責任者Vibbi。Boに引き続き御宅にも3日間居候させてもらった。凸凹道の先の先にある電気なしの小さな家に奥さんと奥さんの姉、両親がPLHIV(Positive Living with HIV)で預かってる子どもの4人暮らし。犬と猫と6人暮らしかな。
夜7時には周辺真っ暗闇になるが星が本当に明るい。そんな自然な家でのんびり過ごした。
初日はまず病院のHIVカウンセラーと話を。ここではstigmaは他のどこよりもマシだとか。そして街を散策しながらPLHIVsの家や職場を回った。
BoではHIV孤児にしか会っていなかったのでまた貴重な経験だ。
ここで感じたこと。それはHIV患者のほぼ全員が完全にそれを隠して普通の生活をしているという事実。Stigmaバリバリだった。見事にほぼ全員が隠していた。一人だけオープンな方がいて直接家に行くことが出来た。彼と奥さん、4人の子どものうち1人がHIVポジティブ。発覚は3年前で毎日薬を飲んでいるという。HIVが発覚したときどう思ったか聞いてみた。すると実は奥さんが発覚してたのを隠してた…というのが分かったらしく。
HIV、見えない脅威だ。みなが恐れて隠したがる。薬さえ毎日飲めば一般の人と何一つ変わらないのに。誤報が世界中で溢れかえってる。HIVが話題にさえならない日本どうなん?
2日目にはHACSA関係者で集合写真を取り、
僕が前に立ちHIVポジティブのメンバーやスタッフとディスカッション。1言目が「孤児が多すぎて支援が足りない…」という被支援者の声だった。それは僕がwhiteだからか。(アフリカではアジアンも白人も全てwhite)日本人だからか。言えば支援をもらえると思ってるのかそれとも本当に支援が必要なのか。しかしその日に食べるものにも困っている家庭の多さはリアルなようだ。
職業訓練所
またHIV孤児の子たちは教育費支援がないと学校に行くことは不可。一人$70で1年間学校に通うことが出来る。授業料、学校チャージ、制服、文房具など授業を受けるために必要なものを全て引っ括めてだ。実は100名以上の孤児の登録があるが支援が出来ているのは10名程度だけだというリアルな資金不足。
こう孤児孤児繰り返し言っているが日本ではかなり少数だろう。日本にも貧困、虐待から施設で暮らす子どもは多くいる。日本のそれを無視することは出来ないが、こう両方の親を亡くして孤児となった子どもで溢れかえっているこの西アフリカ。皆さんの目にどう映るだろうか。
Kenema。Boよりも人口は少ないが街の大きさ、モノの多さでははるかに優っていた。しかし車はすごく少ない。道がガタガタすぎてバイクでの移動が限界だ。電気もすごく不安定。マーケットは大きいがネットカフェや印刷の出来る場所など電気が必要なお店は全然なく、実際写真をプリント出来るお店も少ないくせに停電でout of serviceという自然な街。
Boとはまた一味違うのんびりした時間を家族と過ごすことが出来た。まぁ何かあるかと聞かれると何もないんだけどね。
ども法政3年マサです。引き続きBoでの2日目です。
アルジャジーラを見て日記を書いて、結局12時に就寝。ベットが大きかったので2人で寝ても全然余裕で蚊帳付きだったのが何より快適だった。なぜFreetownの友人宅に蚊帳がないのか未だに疑問でしかない。
朝8時に完全起床。その後パンとケチャップベースのマカロニが朝飯として出てきて美味しくてヤバかった。
そしてオフィスへ。今日はorphans and vulnerable children(OVC)に会うことになっていた。簡単に言うと孤児だがシエラレオネでは特に両親をHIVで亡くしたHIV孤児のことが多い。
その一人の子がcare giverと共に来てくれて話を聞くことが出来た。10歳程度の彼は両親をHIVで亡くし、親戚の家で他の子どもたちと同じように育てられていた。見た目も何もかも普通。唯一朝晩、薬を毎日飲まないといけない。笑顔が少なかったのが少し気になったが両親を亡くしているので無理もない。
でもインタビューさせてもらって思った。何も変わりない。ずっと手を繋いでた彼。後に彼もHIV affectedだと知らされる。一瞬手を離そうとしてしまった自分を悔やんだ。これがstigmaだ。でもキスをしてもHIVが感染しないことを知っている。同時に隣の彼の無邪気な笑顔。彼の手をより強く握り締めた。
この1000家庭以上あるコミュニティの実に40%がHIVにより片親を亡くしているそうだ。つまり同時に家庭の経済状況も著しくない。これが西アフリカ、シエラレオネ第2の都市Boの中心部近くの地域の現状だった。
しかしシエラレオネ、HIVに関してはアフリカ内では数少ないミレニアム開発目標のHIV/AIDS項目に関して成功している国。これが世界の最貧困の一つの姿なのだろうか。ただ街を歩くだけでは貧困を目にすることは出来ない。
夏休みのせいで、僕の中で児童労働が小遣い稼ぎとして正当化されてしまってるのもいけないのかもしれない。児童労働がissueとして僕の目に飛び込んでこない。目の当たりにしすぎて感覚が狂ってきてる。
その後もう一人のHIV孤児の家へ。8歳の彼女は明らかに普通と違った。目がおかしい。常に充血もしてる。笑顔も少ない。生まれた時からこの状態だそうだ。
彼女もHIVで両親を亡くしおばあちゃんと親戚と一緒に住んでいた。彼女自身もHIV positiveなので毎日薬を飲んでいる。そんな彼女に驚かされたのが8歳の彼女、既に小学4年生だという。成績がいいと飛び級出来るシステムのようで彼女はかなりスマートらしい。HIVなんて関係なく毎日楽しく学校に行っているそうだ。
ただこの元気なHIV孤児の子たち。いくら親戚が面倒を見るからと言ってサポートは必須。基本的にどの家も他の子を養う余裕まではない。
そこでインターン先のHACSA(HIV/AIDS Care and Support Association)Boオフィスが行なっているのは、教育支援(授業料、教材費、制服、文具代など全て)、栄養補助(米、大豆、砂糖、油など)、対HIV薬の支援だ。年1の教育支援、3月に1回の食糧支援、月1の薬の支援だ。
しかしこの薬の支援を受けるための病院への交通費さえCare giverには大きな負担となっている貧困の現実がある。
ちなみに約$70=\5600あると一人のHIV孤児へ1年間の教育支援が出来る。
(NGO HACSAではドナーとなってくださる方を募集しています。HACSAは完全に地元の人だけで回している団体で、支援が必要な方の数に対して支援が圧倒的に追いついていません。今のところ外国人が関わっておらず資金繰りに苦しんでいます。
日本円では少額でもここでは大金となります。寄付金は基本的にはHIV孤児の子達への教育支援として使わせて頂きます。詳細は法政大学3年高橋昌祐樹 masa.no.passion.no.life@gmail.com までお願い致します。
旅をして感じるのはほぼ全ての地域が貧困に喘ぎHIV孤児の子の教育費が出せないという現実です。アジアの最貧困の1つであるカンボジアと比べても遥かに貧困レベルが高いと肌で感じます。本当に心の底からお願いします。)
HACSA BoオフィスはGlobal FundというWorld Bank資本の組織とドイツ政府からそれぞれ支援を受けているがやはり基金は足りなく、スタッフのほぼ全員が他の仕事を持ちながらボランティアで働いている。
その後一旦家で昼寝休憩。16歳の可愛い女の子にdo you like riceと聞かれ、うんもちろん好きだよと言ったら出来立ての夕飯が出てきたのが笑えない衝撃。1時にお昼しっかり食べてるのに4時に大盛りのご飯を出されまさに満腹。
ちなみにお昼はシエラレオネ初サラダ。
もちろん生野菜たち。きゅうりにレタス、じゃがいも、卵、ソーセージといった具合。味付けはケチャップとマヨネーズベース。これを焼きたてのパンに挟んで食べる。実に美味しかった。値段も少しはって6,000leonだったがまぁ$1ちょいでこんだけ満足出来たので素晴らしいの一言に尽きる。
その後また少し街を散策。
マーケットの中にHACSAのショップを見つけた。
ここで商品を一旦利用者に渡し、彼らがそれを市場で売り、その儲けの中から元本を支払うという仕組みだ。マイクロファイナンスの一つの形と言っていいだろう。
このアイディアは使える。コミュニティ基金(プチ銀行)と共にカンボジアで近い将来出来ると思った。ちなみに元本回収を確実にするため利用者登録が最初のステップだ。僕が肌で感じたのはみな貧困で引越しは簡単に出来ないため住所を抑えておくのが確実のよう。
夕方、昨日適当にそういやチャイニーズと話したいって言ったら会いに行こうということになり大きなスタジアムの工事現場へ。チャイナパワーを思い知らされる。
恐る恐る侵入すると無邪気なSierra Leoneansが迎えてくれてチャイニーズいないのって聞くと近くに監督さんがいた。しかし噂に聞いたとおりに英語が全く喋れない。それを罵る現地人。笑うしかないおじさんチャイニーズたち。
その後オフィスへ行くと真面目なミーティングの最中。若干怖かったが向こうもこっちが気になってたみたいなので sorry for interrupting. I..I’m actually Japanese, but does anybody speak English? とミーティングを切り裂いた。おそらくjapaneseとenglishだけ理解したようで一人の男を紹介された。
彼の名はホウリャン。28歳。
マレー語も話せるようで聞くと兄弟がロシアやら日本やらかなりの国際一家だった。おかげで日本人への理解もポジティブでかなり優しくしてもらった。彼はシエラレオネに工事の仕事でもう4年も住んでいるそうだ。
中国茶と中国テイストの夕飯、肉まん食感のパンをご馳走になり日本のAVの話やらお互いの人生の話で盛り上がった。
もう優しすぎて、更に僕が友達になったアフリカ内、初アジアンだったためすごく気を許せた。落ち着いてもっと頑張れる気がした。最後中国茶少しだけもらえるか聞くと缶ごとくれてもう感謝感謝。巨大なスタジアム建設現場の外まで送ってくれて兄貴を持った気分だった。
実は外にNGOスタッフを1時間半以上も待たせていたので彼は帰路につこうとしているとこに駆け足で間に合った。案の定僕が長居して怒っていたがすぐバイクを捕まえられてすぐ帰れたので無事解決。家に帰ると案の定停電。
停電の日は街の中心部に飲みに行くのが習慣らしくシエラレオネ初バーへ。カンボジアのそれと似ていたが素敵だったのはビール以外があったこと。体質的に吐いてしまうもんで。
出てきたのがパイナップルスピリット。
破格のL500で50ml, 43%の美味しいショットだった。しかもシエラレオネ産。これがどれだけ安いかというと$1=80円で8杯ショットが飲める。ショットが$7もするカナダをぶっ潰したい。
ここではラジオのパーソナリティと新聞記者双方を勤めるジャーナリストの友人と落ち合い、僕の見るシエラレオネを語った。
そしてやはり1番の話題は11月に行われる大統領選だそうで基本を教えてもらった。あいにく1国の政治情勢はどうもマニアックすぎて政治好きの僕でも中々知識が着いていかない。まぁアフリカで夜10時過ぎに完璧に酔っ払うも安全なBoでした。帰宅するとNGOスタッフVandyの言うとおり電気は回復。無事デジカメと携帯を充電させてもらった。
Boを案内して宿まで提供してくれた彼VandyはNGO HACSAの創設メンバーの一人でもう10年勤めている。ずっとボランティアだ。大卒でクリニック管轄の他の仕事で生計を立てているそうだが見る感じお金の羽振りはよくコミュニティ内でも重要な人物のようだ。多くの人が両手で握手をしていた。コミュニティ内の工事の揉め事も彼が解決していた。次のカウンセラー(コミュニティのトップ)の選挙に出るそうでかなりのhumanitarianだ。
そんな元気で顔の広い彼、実は奥さんをHIVで亡くしていた。Unicef等に勤めた後HACSA設立に至った理由だ。そんな彼もHIV positive。毎日薬を飲んでいた。これをcoming outされた時には衝撃だったが彼の強さを感じた。
そんなこんなのBo生活2日間。やはり旅要素はゼロなんだがしかし本当に濃い貴重な経験が出来た。明日からのKenemaが楽しみと同時にここを離れるのが惜しい。心あったまった。
アルジャジーラを見て日記を書いて、結局12時に就寝。ベットが大きかったので2人で寝ても全然余裕で蚊帳付きだったのが何より快適だった。なぜFreetownの友人宅に蚊帳がないのか未だに疑問でしかない。
朝8時に完全起床。その後パンとケチャップベースのマカロニが朝飯として出てきて美味しくてヤバかった。
そしてオフィスへ。今日はorphans and vulnerable children(OVC)に会うことになっていた。簡単に言うと孤児だがシエラレオネでは特に両親をHIVで亡くしたHIV孤児のことが多い。
その一人の子がcare giverと共に来てくれて話を聞くことが出来た。10歳程度の彼は両親をHIVで亡くし、親戚の家で他の子どもたちと同じように育てられていた。見た目も何もかも普通。唯一朝晩、薬を毎日飲まないといけない。笑顔が少なかったのが少し気になったが両親を亡くしているので無理もない。
でもインタビューさせてもらって思った。何も変わりない。ずっと手を繋いでた彼。後に彼もHIV affectedだと知らされる。一瞬手を離そうとしてしまった自分を悔やんだ。これがstigmaだ。でもキスをしてもHIVが感染しないことを知っている。同時に隣の彼の無邪気な笑顔。彼の手をより強く握り締めた。
この1000家庭以上あるコミュニティの実に40%がHIVにより片親を亡くしているそうだ。つまり同時に家庭の経済状況も著しくない。これが西アフリカ、シエラレオネ第2の都市Boの中心部近くの地域の現状だった。
しかしシエラレオネ、HIVに関してはアフリカ内では数少ないミレニアム開発目標のHIV/AIDS項目に関して成功している国。これが世界の最貧困の一つの姿なのだろうか。ただ街を歩くだけでは貧困を目にすることは出来ない。
夏休みのせいで、僕の中で児童労働が小遣い稼ぎとして正当化されてしまってるのもいけないのかもしれない。児童労働がissueとして僕の目に飛び込んでこない。目の当たりにしすぎて感覚が狂ってきてる。
その後もう一人のHIV孤児の家へ。8歳の彼女は明らかに普通と違った。目がおかしい。常に充血もしてる。笑顔も少ない。生まれた時からこの状態だそうだ。
彼女もHIVで両親を亡くしおばあちゃんと親戚と一緒に住んでいた。彼女自身もHIV positiveなので毎日薬を飲んでいる。そんな彼女に驚かされたのが8歳の彼女、既に小学4年生だという。成績がいいと飛び級出来るシステムのようで彼女はかなりスマートらしい。HIVなんて関係なく毎日楽しく学校に行っているそうだ。
ただこの元気なHIV孤児の子たち。いくら親戚が面倒を見るからと言ってサポートは必須。基本的にどの家も他の子を養う余裕まではない。
そこでインターン先のHACSA(HIV/AIDS Care and Support Association)Boオフィスが行なっているのは、教育支援(授業料、教材費、制服、文具代など全て)、栄養補助(米、大豆、砂糖、油など)、対HIV薬の支援だ。年1の教育支援、3月に1回の食糧支援、月1の薬の支援だ。
しかしこの薬の支援を受けるための病院への交通費さえCare giverには大きな負担となっている貧困の現実がある。
ちなみに約$70=\5600あると一人のHIV孤児へ1年間の教育支援が出来る。
(NGO HACSAではドナーとなってくださる方を募集しています。HACSAは完全に地元の人だけで回している団体で、支援が必要な方の数に対して支援が圧倒的に追いついていません。今のところ外国人が関わっておらず資金繰りに苦しんでいます。
日本円では少額でもここでは大金となります。寄付金は基本的にはHIV孤児の子達への教育支援として使わせて頂きます。詳細は法政大学3年高橋昌祐樹 masa.no.passion.no.life@gmail.com までお願い致します。
旅をして感じるのはほぼ全ての地域が貧困に喘ぎHIV孤児の子の教育費が出せないという現実です。アジアの最貧困の1つであるカンボジアと比べても遥かに貧困レベルが高いと肌で感じます。本当に心の底からお願いします。)
HACSA BoオフィスはGlobal FundというWorld Bank資本の組織とドイツ政府からそれぞれ支援を受けているがやはり基金は足りなく、スタッフのほぼ全員が他の仕事を持ちながらボランティアで働いている。
その後一旦家で昼寝休憩。16歳の可愛い女の子にdo you like riceと聞かれ、うんもちろん好きだよと言ったら出来立ての夕飯が出てきたのが笑えない衝撃。1時にお昼しっかり食べてるのに4時に大盛りのご飯を出されまさに満腹。
ちなみにお昼はシエラレオネ初サラダ。
もちろん生野菜たち。きゅうりにレタス、じゃがいも、卵、ソーセージといった具合。味付けはケチャップとマヨネーズベース。これを焼きたてのパンに挟んで食べる。実に美味しかった。値段も少しはって6,000leonだったがまぁ$1ちょいでこんだけ満足出来たので素晴らしいの一言に尽きる。
その後また少し街を散策。
マーケットの中にHACSAのショップを見つけた。
ここで商品を一旦利用者に渡し、彼らがそれを市場で売り、その儲けの中から元本を支払うという仕組みだ。マイクロファイナンスの一つの形と言っていいだろう。
このアイディアは使える。コミュニティ基金(プチ銀行)と共にカンボジアで近い将来出来ると思った。ちなみに元本回収を確実にするため利用者登録が最初のステップだ。僕が肌で感じたのはみな貧困で引越しは簡単に出来ないため住所を抑えておくのが確実のよう。
夕方、昨日適当にそういやチャイニーズと話したいって言ったら会いに行こうということになり大きなスタジアムの工事現場へ。チャイナパワーを思い知らされる。
恐る恐る侵入すると無邪気なSierra Leoneansが迎えてくれてチャイニーズいないのって聞くと近くに監督さんがいた。しかし噂に聞いたとおりに英語が全く喋れない。それを罵る現地人。笑うしかないおじさんチャイニーズたち。
その後オフィスへ行くと真面目なミーティングの最中。若干怖かったが向こうもこっちが気になってたみたいなので sorry for interrupting. I..I’m actually Japanese, but does anybody speak English? とミーティングを切り裂いた。おそらくjapaneseとenglishだけ理解したようで一人の男を紹介された。
彼の名はホウリャン。28歳。
マレー語も話せるようで聞くと兄弟がロシアやら日本やらかなりの国際一家だった。おかげで日本人への理解もポジティブでかなり優しくしてもらった。彼はシエラレオネに工事の仕事でもう4年も住んでいるそうだ。
中国茶と中国テイストの夕飯、肉まん食感のパンをご馳走になり日本のAVの話やらお互いの人生の話で盛り上がった。
もう優しすぎて、更に僕が友達になったアフリカ内、初アジアンだったためすごく気を許せた。落ち着いてもっと頑張れる気がした。最後中国茶少しだけもらえるか聞くと缶ごとくれてもう感謝感謝。巨大なスタジアム建設現場の外まで送ってくれて兄貴を持った気分だった。
実は外にNGOスタッフを1時間半以上も待たせていたので彼は帰路につこうとしているとこに駆け足で間に合った。案の定僕が長居して怒っていたがすぐバイクを捕まえられてすぐ帰れたので無事解決。家に帰ると案の定停電。
停電の日は街の中心部に飲みに行くのが習慣らしくシエラレオネ初バーへ。カンボジアのそれと似ていたが素敵だったのはビール以外があったこと。体質的に吐いてしまうもんで。
出てきたのがパイナップルスピリット。
破格のL500で50ml, 43%の美味しいショットだった。しかもシエラレオネ産。これがどれだけ安いかというと$1=80円で8杯ショットが飲める。ショットが$7もするカナダをぶっ潰したい。
ここではラジオのパーソナリティと新聞記者双方を勤めるジャーナリストの友人と落ち合い、僕の見るシエラレオネを語った。
そしてやはり1番の話題は11月に行われる大統領選だそうで基本を教えてもらった。あいにく1国の政治情勢はどうもマニアックすぎて政治好きの僕でも中々知識が着いていかない。まぁアフリカで夜10時過ぎに完璧に酔っ払うも安全なBoでした。帰宅するとNGOスタッフVandyの言うとおり電気は回復。無事デジカメと携帯を充電させてもらった。
Boを案内して宿まで提供してくれた彼VandyはNGO HACSAの創設メンバーの一人でもう10年勤めている。ずっとボランティアだ。大卒でクリニック管轄の他の仕事で生計を立てているそうだが見る感じお金の羽振りはよくコミュニティ内でも重要な人物のようだ。多くの人が両手で握手をしていた。コミュニティ内の工事の揉め事も彼が解決していた。次のカウンセラー(コミュニティのトップ)の選挙に出るそうでかなりのhumanitarianだ。
そんな元気で顔の広い彼、実は奥さんをHIVで亡くしていた。Unicef等に勤めた後HACSA設立に至った理由だ。そんな彼もHIV positive。毎日薬を飲んでいた。これをcoming outされた時には衝撃だったが彼の強さを感じた。
そんなこんなのBo生活2日間。やはり旅要素はゼロなんだがしかし本当に濃い貴重な経験が出来た。明日からのKenemaが楽しみと同時にここを離れるのが惜しい。心あったまった。
ども。法政3年マサです。
首都FreetownでのNGOインターンが一区切りして且つまだ旅に出ていない自分がどこか許せなかったので地方都市を周る旅へ。お金盗まれて全然ないのでステイはNGOスタッフにお世話に。
ただの日記ですが是非写真だけでも見てやってください。
8/15(wed)
朝6時半過ぎにFreetownのShell company(長距離バスターミナル)へ。20,000leonで無事チケットを買え、これでもかと荷物の詰め込まれた小さなバスは7時半に出発。外人は僕一人。
途中の休憩junctionでトイレどこ?と聞いた物売りの青年が場所まで案内してくれて且つトイレ代を奢ってくれてすごく幸せな気分になった。寝たら全部盗まれて終わりとか現地人に脅されてたけど案の定寝ても問題はなし。計3回程度休憩をはさみ12時頃に第2の都市Boのメインロードに到着。
やはり人がフレンドリーで優しい。ここではインターン先NGOの支部長さん50歳くらいのVandyの家でお世話になった。というよりご飯からトイレから街案内から全てお世話になった。家はBoの中心から歩いて行ける距離。なのにもう水回りは壊滅的。トイレは外に共同のもの。
まさかの水浴び場がなくNGOのオフィス(家から1分)で風呂を済ませた。しかしオフィスの水回りはキレイだ。白のタイル張りで綺麗すぎて快適。と言っても水浴びに変わりはない。
今日は街到着後早速Network of HIV Positives in Sierra Leone (NETHIPS)の地域オフィスへ。簡単に挨拶を済ませたが笑顔すぎて可愛かったスタッフが…でもけっこう年上な気もした。ほんとアフリカンの年齢推測不可。
その後総合病院へ。規模の大きさとカバーしてる領域の幅にびっくり。
そしてインターン先のBoオフィスへ。建物周辺に合計5つのNGOがあったので全部に簡単に挨拶周り。やはりみんな毎日何の仕事をしているのか疑問符しかつかない。
次に街を散策。第2の都市言えど小さい。Freetownがあれだけ大きな都市なのに…小さい。ただマーケットは賑わってた。
見かけた外人はアラブ系のみ。またFreetownにはないシエラレオネ特産のダイアモンド関連会社がたくさん。ただ全て輸出用のオフィスだそう。Okada(バイク)が街中ならL1,000という格安!
オフィスに戻り昼寝、シャワー、夕飯、テレビ見ながら日本の社会問題の話などなど。Boではなぜかアルジャジーラばかり目にする。FreetownはBBCかCNNだったので新鮮。世界をカバーするアメリカの偏見の入ってないニュースに、何より面白いプログラム。今日はエジプトのムスリムファッションショーの特集。エジプトに行きたくなったw ホリエモンがアルジャジーラをもっと日本国内に普及させようとしてたのが頷ける。
NGO HACSAのBoオフィスとVandy
首都FreetownでのNGOインターンが一区切りして且つまだ旅に出ていない自分がどこか許せなかったので地方都市を周る旅へ。お金盗まれて全然ないのでステイはNGOスタッフにお世話に。
ただの日記ですが是非写真だけでも見てやってください。
8/15(wed)
朝6時半過ぎにFreetownのShell company(長距離バスターミナル)へ。20,000leonで無事チケットを買え、これでもかと荷物の詰め込まれた小さなバスは7時半に出発。外人は僕一人。
途中の休憩junctionでトイレどこ?と聞いた物売りの青年が場所まで案内してくれて且つトイレ代を奢ってくれてすごく幸せな気分になった。寝たら全部盗まれて終わりとか現地人に脅されてたけど案の定寝ても問題はなし。計3回程度休憩をはさみ12時頃に第2の都市Boのメインロードに到着。
やはり人がフレンドリーで優しい。ここではインターン先NGOの支部長さん50歳くらいのVandyの家でお世話になった。というよりご飯からトイレから街案内から全てお世話になった。家はBoの中心から歩いて行ける距離。なのにもう水回りは壊滅的。トイレは外に共同のもの。
まさかの水浴び場がなくNGOのオフィス(家から1分)で風呂を済ませた。しかしオフィスの水回りはキレイだ。白のタイル張りで綺麗すぎて快適。と言っても水浴びに変わりはない。
今日は街到着後早速Network of HIV Positives in Sierra Leone (NETHIPS)の地域オフィスへ。簡単に挨拶を済ませたが笑顔すぎて可愛かったスタッフが…でもけっこう年上な気もした。ほんとアフリカンの年齢推測不可。
その後総合病院へ。規模の大きさとカバーしてる領域の幅にびっくり。
そしてインターン先のBoオフィスへ。建物周辺に合計5つのNGOがあったので全部に簡単に挨拶周り。やはりみんな毎日何の仕事をしているのか疑問符しかつかない。
次に街を散策。第2の都市言えど小さい。Freetownがあれだけ大きな都市なのに…小さい。ただマーケットは賑わってた。
見かけた外人はアラブ系のみ。またFreetownにはないシエラレオネ特産のダイアモンド関連会社がたくさん。ただ全て輸出用のオフィスだそう。Okada(バイク)が街中ならL1,000という格安!
オフィスに戻り昼寝、シャワー、夕飯、テレビ見ながら日本の社会問題の話などなど。Boではなぜかアルジャジーラばかり目にする。FreetownはBBCかCNNだったので新鮮。世界をカバーするアメリカの偏見の入ってないニュースに、何より面白いプログラム。今日はエジプトのムスリムファッションショーの特集。エジプトに行きたくなったw ホリエモンがアルジャジーラをもっと日本国内に普及させようとしてたのが頷ける。
NGO HACSAのBoオフィスとVandy
こんちは!西アフリカはシエラレオネより法政3年マサです。
色々書いたので最後まで読んでいただけるとすごく嬉しいです。
長くてまとまってなくて読みづらいというツッコミもお願いしますw
西アフリカ極貧生活:出費面
余りにトラベラーズチェックの換金に時間がかかりすぎて(省略)
とうとう所持金が20,000Leon ($4.5)を切った。
東南アジア一人旅をした際にも最後カンボジアからバンコクに戻る時所持金が$7になったのが懐かしい。一番安い炭水化物と水しか口に入れない生活にはだいぶ慣れたはず。
しかしお金が足りない。
宿泊先の友達家から街の中心地まで乗り合いバスで行きL.1000、帰りラッシュのためL.2000。
毎日の朝兼昼飯がL.500の小さな甘い丸いパン?とL.500のミニ焼きとうもろこし2つ。おそらくここで買える最安ストリートフードたちだ。
昼飯兼夜食用にL.1000のパン2つ。夕食は家で。後はぬるい飲み水の小袋がいっぱい入ったやつがL3000で3日か4日に一回。
毎日の出費はこんなもんだろうか。
基本毎日NGOオフィスに行くため街に行かなきゃなので最低毎日L.6500 (約$1.5≒\120)のliving cost。お金がないとこれさえもキツい…
インターン先のNGOではFacebook Pageを作り(ネットの関係で未完)、代表からだいたい2日に1回3時間程度知識をシェアして頂いている。NGOが何せローカルでシエラレオネ人以外関わってないので、代表も外国人の僕がいるあいだに何かを仕掛けたいようだ。新プロジェクトを起こすことで話が進んでいる。
ミニ会社経営:収入面
稼ぎの方のスモールビジネス。
お客さんは毎日平均一人で徐々にに内容的に額が下がってきえるのが痛い。理由は昼間毎日NGOに行っていて家にいないから。時間を夕方以降に設定したけどお客さんは昼間に来て会えない、の不のループが続いてるらしい。今日土曜日にそのお客さんたちがまとめて来るとか来ないとか。
それと実は2日前に企業向けのサービスを始めた。
1契約につき$100。
一件ゲットしたらシエラレオネの平均月収(定かではない。感覚値)である$50~70は簡単に越せる。
うまくシェア出来れば職のないIT系大学生の雇用創出が出来る。
あくまでうまく行けば。
一昨日ビラのようなモノを作り
昨日金曜日に企業周り。
まずは友達の知ってる企業から攻め4件だけ。
人生初の本格的な企業営業を西アフリカで経験するとは思わなかった。
反応は上々。
全ての企業で週明けに社長とのミーティングを持っていただけることになった。
ただ契約をいただくまでは何とも言えないのでまだ調子には乗らないでおく。
衝撃:世界の不均等
とまぁお金がなくて更にビジネスのセンスがないのか、てか努力が足りないのだが
お金足りないので親に申し訳ないがWestern Unionを通じてお金を送ってもらった。ウエスタンウニオン、こんな素敵なシステムがあるとは。命を救われた。
額は4万円分。額を晒していいのか迷ったが読者の方に具体的なイメージを持ってもらえたら嬉しいので。
しかし驚いた。この額、現地通貨になおすと2,130,000Leon≒$500だ。
2 million Leon
この額があると何が出来るかというと、首都の街中の小さなオフィスを2年間借りれる。小さめの一般的な家でも1年間分の家賃。
衝撃だった…。
通貨価値が大きく違うことは認識していた。日本円の強さはカナダで感じていた。
でもたった4万円で…? 家に、オフィス…
僕らただの大学生が5日間、朝から晩までバイトするだけで稼げる…
世界狂ってる。なんだこの不平等、不均等。
何を今更って思うかもしれないけどやっぱりこの世界狂ってる。
支援への想い
インドやカンボジアを通して、
国が違うことで命の重さが違う、人生の可能性に大きな差があることに憤りに近いものを感じていた。
人生の可能性ってのは人生に選択肢があるかということ。
これの大きな境目になるのが識字の有無。
字が読めればそれなりの職に付ける可能性が高まる。情報にアクセス出来たとして情報を利用出来る。
識字の有無、そのためには初等中等教育は絶対だ。
だからこそCBBにおける中学校へのアクセスが難しいカンボジアの子どもへの自転車支援。通学に片道徒歩1時間以上が目安だ。
昨年、たった5名だけ?って思うかもしれないけど、少なくともその5人の子どもの人生は劇的に変わった。
自転車がなかったら退学していただろう。
この言葉を月一インタビューを通して聞いた時には何とも言えない、何モノにも代え難い感情がこみ上げてきた。
今年も少しづつ拡大させる。
今年支援した子たちの高校、大学進学の貸与奨学金も将来行いたい。そして将来彼らが次の世代の子を支えるCycleを生むことを願って。僕らが完全に活動から手を引くのがゴールだ。それまでは続ける。
僕の道
実はこの1年間のインタビューを通じて課題にも直面した。
子どもは学校に行きたいが、親は家計のために一旦学校を休んで働いてほしいと…。進学に必要なテストの問題が発表される課外授業の費用が払えない…。重い風邪への薬を買うために土地の一部を売る現実…。
教育支援、子どもだけ支援しても救えない現実があることを見せられた。
2年前に小学校建設に参加して感じた、学校を建てても家庭の事情で学校に通えない子どもが多くいる現実。
2年前と同じゴールに戻ってきた。やっぱり親の雇用創出が必要だ。マイクロファイナンスも一つの手。インターン先でちょくちょく教わってる。
でもただの支援ではなく、より公平で持続可能なビジネスで。
だからなのか僕が今ここ途上国で小さな会社を起こした隠れた動機。
ホント人生の全ての点が怖いくらいに繋がって1本の道に導かれてる。
この世界の不均等に対する憤りからカンボジアでの自転車支援まで落とし込んで
今世界最貧困の西アフリカで思う。
この世界やっぱ狂ってる。
国を作る教育、その教育環境を整えるための雇用創出。
そろそろ進路を決めなきゃいけない就活前の身、ここが僕の道か。
最大のジレンマ:途上国で働くということ。
ただ残念だが同時に思う。
日本の通貨価値の元途上国で働いたお金が何になろう。
将来子どもは出来たら日本と北米半々で育てたい。
しかし僕の生活基盤はあくまで日本で、僕の帰る場所が日本で、僕の地球上で一番大好きな場所が日本だ。
西アフリカで必死に働いて稼いだ現地で生活するにはある種十分なお金。
でも日本からたった4万円が送られてきただけ(本当に親には感謝)で、その額を遥かに圧倒的に上回った。
この格差を体で感じた今。
途上国で働くことへの魅力は正直薄れた。現実に想いを砕かれた。
お金が全てではない。でも経済的に自立しなければいけない。将来の生活基盤は日本。今を生きろとか言われるんだろうが、僕は誰よりも常に現実的に計画的にいく。
更なるジレンマ
むしろこの格差に憤りを感じるのだからここを変えなければ。
資本主義という大きな新たな壁に今ぶち当たっている。デカい、今回は敵がデカすぎる…
いや、でも…。
職を産みに産んで、途上国の所得の底上げを行えばいいんだ。経済も比例して成長する。通貨価値も比例する。雇用創出、限界が見えるまでやってみる。
教育支援を通して草の根の限界はもう感じている。
それを覆すのがNGOネットワークによる政府へのアドボカシー。企業から有権者まで巻き込めば、政策変更、法整備までいける。もちろん僕の武器はインターン先で学んでシエラレオネでも起業した領域、ソーシャルメディアだ。
How toをイメージ出来た。うん勝てる。ワクワクするね。妄想には夢がある。
そして妄想出来ることは実現出来る。
他に…
途上国で日本国内にいる時バリに稼げばいい。理想論。
でも理想をかざせない人間に夢は追えない。
どこまでも理想を振りかざして、一つ一つ行動と結果で示していく。
追伸
9月帰国後に起業すると宣言してる。もちろんシエラレオネの会社とは領域は同じだが別物だ。
ただ大学での単位が意味分からないレベルで残りすぎていて。
カナダのインターン先で気付いた朝から夕方まで週5で働くことで提供できる価値。これを昼間大学に行きながら提供出来る気がしない。カナダでインターンと夜間学校を同時にこなして自分の最高のパフォーマンスを維持出来る体力の限界を知った。
僕は人間だ。もしかしたらまた1年休学するかもしれない。
時間という人生最大のリスクを賭ける。そして失敗したら就活が僕を待っている。
色々書いたので最後まで読んでいただけるとすごく嬉しいです。
長くてまとまってなくて読みづらいというツッコミもお願いしますw
西アフリカ極貧生活:出費面
余りにトラベラーズチェックの換金に時間がかかりすぎて(省略)
とうとう所持金が20,000Leon ($4.5)を切った。
東南アジア一人旅をした際にも最後カンボジアからバンコクに戻る時所持金が$7になったのが懐かしい。一番安い炭水化物と水しか口に入れない生活にはだいぶ慣れたはず。
しかしお金が足りない。
宿泊先の友達家から街の中心地まで乗り合いバスで行きL.1000、帰りラッシュのためL.2000。
毎日の朝兼昼飯がL.500の小さな甘い丸いパン?とL.500のミニ焼きとうもろこし2つ。おそらくここで買える最安ストリートフードたちだ。
昼飯兼夜食用にL.1000のパン2つ。夕食は家で。後はぬるい飲み水の小袋がいっぱい入ったやつがL3000で3日か4日に一回。
毎日の出費はこんなもんだろうか。
基本毎日NGOオフィスに行くため街に行かなきゃなので最低毎日L.6500 (約$1.5≒\120)のliving cost。お金がないとこれさえもキツい…
インターン先のNGOではFacebook Pageを作り(ネットの関係で未完)、代表からだいたい2日に1回3時間程度知識をシェアして頂いている。NGOが何せローカルでシエラレオネ人以外関わってないので、代表も外国人の僕がいるあいだに何かを仕掛けたいようだ。新プロジェクトを起こすことで話が進んでいる。
ミニ会社経営:収入面
稼ぎの方のスモールビジネス。
お客さんは毎日平均一人で徐々にに内容的に額が下がってきえるのが痛い。理由は昼間毎日NGOに行っていて家にいないから。時間を夕方以降に設定したけどお客さんは昼間に来て会えない、の不のループが続いてるらしい。今日土曜日にそのお客さんたちがまとめて来るとか来ないとか。
それと実は2日前に企業向けのサービスを始めた。
1契約につき$100。
一件ゲットしたらシエラレオネの平均月収(定かではない。感覚値)である$50~70は簡単に越せる。
うまくシェア出来れば職のないIT系大学生の雇用創出が出来る。
あくまでうまく行けば。
一昨日ビラのようなモノを作り
昨日金曜日に企業周り。
まずは友達の知ってる企業から攻め4件だけ。
人生初の本格的な企業営業を西アフリカで経験するとは思わなかった。
反応は上々。
全ての企業で週明けに社長とのミーティングを持っていただけることになった。
ただ契約をいただくまでは何とも言えないのでまだ調子には乗らないでおく。
衝撃:世界の不均等
とまぁお金がなくて更にビジネスのセンスがないのか、てか努力が足りないのだが
お金足りないので親に申し訳ないがWestern Unionを通じてお金を送ってもらった。ウエスタンウニオン、こんな素敵なシステムがあるとは。命を救われた。
額は4万円分。額を晒していいのか迷ったが読者の方に具体的なイメージを持ってもらえたら嬉しいので。
しかし驚いた。この額、現地通貨になおすと2,130,000Leon≒$500だ。
2 million Leon
この額があると何が出来るかというと、首都の街中の小さなオフィスを2年間借りれる。小さめの一般的な家でも1年間分の家賃。
衝撃だった…。
通貨価値が大きく違うことは認識していた。日本円の強さはカナダで感じていた。
でもたった4万円で…? 家に、オフィス…
僕らただの大学生が5日間、朝から晩までバイトするだけで稼げる…
世界狂ってる。なんだこの不平等、不均等。
何を今更って思うかもしれないけどやっぱりこの世界狂ってる。
支援への想い
インドやカンボジアを通して、
国が違うことで命の重さが違う、人生の可能性に大きな差があることに憤りに近いものを感じていた。
人生の可能性ってのは人生に選択肢があるかということ。
これの大きな境目になるのが識字の有無。
字が読めればそれなりの職に付ける可能性が高まる。情報にアクセス出来たとして情報を利用出来る。
識字の有無、そのためには初等中等教育は絶対だ。
だからこそCBBにおける中学校へのアクセスが難しいカンボジアの子どもへの自転車支援。通学に片道徒歩1時間以上が目安だ。
昨年、たった5名だけ?って思うかもしれないけど、少なくともその5人の子どもの人生は劇的に変わった。
自転車がなかったら退学していただろう。
この言葉を月一インタビューを通して聞いた時には何とも言えない、何モノにも代え難い感情がこみ上げてきた。
今年も少しづつ拡大させる。
今年支援した子たちの高校、大学進学の貸与奨学金も将来行いたい。そして将来彼らが次の世代の子を支えるCycleを生むことを願って。僕らが完全に活動から手を引くのがゴールだ。それまでは続ける。
僕の道
実はこの1年間のインタビューを通じて課題にも直面した。
子どもは学校に行きたいが、親は家計のために一旦学校を休んで働いてほしいと…。進学に必要なテストの問題が発表される課外授業の費用が払えない…。重い風邪への薬を買うために土地の一部を売る現実…。
教育支援、子どもだけ支援しても救えない現実があることを見せられた。
2年前に小学校建設に参加して感じた、学校を建てても家庭の事情で学校に通えない子どもが多くいる現実。
2年前と同じゴールに戻ってきた。やっぱり親の雇用創出が必要だ。マイクロファイナンスも一つの手。インターン先でちょくちょく教わってる。
でもただの支援ではなく、より公平で持続可能なビジネスで。
だからなのか僕が今ここ途上国で小さな会社を起こした隠れた動機。
ホント人生の全ての点が怖いくらいに繋がって1本の道に導かれてる。
この世界の不均等に対する憤りからカンボジアでの自転車支援まで落とし込んで
今世界最貧困の西アフリカで思う。
この世界やっぱ狂ってる。
国を作る教育、その教育環境を整えるための雇用創出。
そろそろ進路を決めなきゃいけない就活前の身、ここが僕の道か。
最大のジレンマ:途上国で働くということ。
ただ残念だが同時に思う。
日本の通貨価値の元途上国で働いたお金が何になろう。
将来子どもは出来たら日本と北米半々で育てたい。
しかし僕の生活基盤はあくまで日本で、僕の帰る場所が日本で、僕の地球上で一番大好きな場所が日本だ。
西アフリカで必死に働いて稼いだ現地で生活するにはある種十分なお金。
でも日本からたった4万円が送られてきただけ(本当に親には感謝)で、その額を遥かに圧倒的に上回った。
この格差を体で感じた今。
途上国で働くことへの魅力は正直薄れた。現実に想いを砕かれた。
お金が全てではない。でも経済的に自立しなければいけない。将来の生活基盤は日本。今を生きろとか言われるんだろうが、僕は誰よりも常に現実的に計画的にいく。
更なるジレンマ
むしろこの格差に憤りを感じるのだからここを変えなければ。
資本主義という大きな新たな壁に今ぶち当たっている。デカい、今回は敵がデカすぎる…
いや、でも…。
職を産みに産んで、途上国の所得の底上げを行えばいいんだ。経済も比例して成長する。通貨価値も比例する。雇用創出、限界が見えるまでやってみる。
教育支援を通して草の根の限界はもう感じている。
それを覆すのがNGOネットワークによる政府へのアドボカシー。企業から有権者まで巻き込めば、政策変更、法整備までいける。もちろん僕の武器はインターン先で学んでシエラレオネでも起業した領域、ソーシャルメディアだ。
How toをイメージ出来た。うん勝てる。ワクワクするね。妄想には夢がある。
そして妄想出来ることは実現出来る。
他に…
途上国で日本国内にいる時バリに稼げばいい。理想論。
でも理想をかざせない人間に夢は追えない。
どこまでも理想を振りかざして、一つ一つ行動と結果で示していく。
追伸
9月帰国後に起業すると宣言してる。もちろんシエラレオネの会社とは領域は同じだが別物だ。
ただ大学での単位が意味分からないレベルで残りすぎていて。
カナダのインターン先で気付いた朝から夕方まで週5で働くことで提供できる価値。これを昼間大学に行きながら提供出来る気がしない。カナダでインターンと夜間学校を同時にこなして自分の最高のパフォーマンスを維持出来る体力の限界を知った。
僕は人間だ。もしかしたらまた1年休学するかもしれない。
時間という人生最大のリスクを賭ける。そして失敗したら就活が僕を待っている。
こんちは法政3年マサです!
カナダ10ヶ月留学後、今は西アフリカ、シエラレオネに滞在しています!約40日です。
今回は全然ただの日記です。
空港
予定通り朝5時にシエラレオネ、フリータウンの空港に到着。
空港と言っても…ん、これだけ…?という大きさ。
ターミナルに着いたら適当に入国用の紙を渡され、
とりあえずパスポート渡し、
すごい適当に眺め渡して
絶対関係ないカンボジアのビザやら凝視。
シエラレオネビザは持ってたので後は適当にスタンプを押してもらい通過。
また適当に黄熱病の紙見せてよ!と。
そんで空港内唯一の荷物のピックアップレーンから速攻でバックパックを取り、税関へ。
ん、、これが税関…?
ワイルドに机だけ置いてあって
何もチェックせずにチップだけ優しく要求された。
笑って誤魔化し外に出てやご(彼が全て紹介してくれた)の友達アブラマンを待つこと数十分。
やごが彼にあげたであろう日本のビラを持って小柄な優しそうな青年が登場した。
Helloアフリカ
彼と合流後早速乗合タクシーで
ここLungiルンギから街に向かうためのフェリー乗り場へ。
アフリカだ…
自分、とうとうアフリカに来たんだ…。。
という実感が一番湧いた瞬間だった。
日本人の僕からしたら半分壊れているような家たち、
全てがどこか土で茶色く、
家の前でご飯の支度をし、
窓ガラスのない無数の窓たち。
アジアとは違った。
まるで違った。
インド、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナム、そして大好きなカンボジア。
生活のレベルが圧倒的に違いすぎた。
これはアジアじゃない、
支援すべきはアジアじゃない…静かな衝撃がアフリカ到着1時間の僕を襲っていた。
(正直今こう5日間過ごしてみて、余り支援の必要性は感じない。まだこれからNGOの現場に連れていってもらうので言い切れはしないが。またアジアよりも圧倒的に国際機関、NGO関連者が少ないと感じる。)
カオスフェリー
普通の乗用車に後ろ5人、前3人計8人は乗っていた乗合タクシーをにてフェリー乗り場へ到着、
一番安い3000Leonの2等席を買う。
最初みた瞬間、これがフェリーか…?というレベルでブッ壊れていた。
更に錆だらけだ。
2等席で待つこと1時間、
いつの間にか地元の人で満員のフェリーは
宣教師やら実演型CD販売でカオスだった。
下には車からその日の大量の商売道具を抱えた婦人に子どもたち。
大学生らしき子たちの姿もチラホラ。
外人は僕合わせ4人。モロッコから来たNGO関係者のようだった。
ここから50分弱の船旅。
小高い山々と同時に首都フリータウンが見えてきた。
純粋にキレイな景観。
緩やかな山に家々が順々に並んでいて隙間には緑が溢れていた。
カナダ10ヶ月留学後、今は西アフリカ、シエラレオネに滞在しています!約40日です。
今回は全然ただの日記です。
空港
予定通り朝5時にシエラレオネ、フリータウンの空港に到着。
空港と言っても…ん、これだけ…?という大きさ。
ターミナルに着いたら適当に入国用の紙を渡され、
とりあえずパスポート渡し、
すごい適当に眺め渡して
絶対関係ないカンボジアのビザやら凝視。
シエラレオネビザは持ってたので後は適当にスタンプを押してもらい通過。
また適当に黄熱病の紙見せてよ!と。
そんで空港内唯一の荷物のピックアップレーンから速攻でバックパックを取り、税関へ。
ん、、これが税関…?
ワイルドに机だけ置いてあって
何もチェックせずにチップだけ優しく要求された。
笑って誤魔化し外に出てやご(彼が全て紹介してくれた)の友達アブラマンを待つこと数十分。
やごが彼にあげたであろう日本のビラを持って小柄な優しそうな青年が登場した。
Helloアフリカ
彼と合流後早速乗合タクシーで
ここLungiルンギから街に向かうためのフェリー乗り場へ。
アフリカだ…
自分、とうとうアフリカに来たんだ…。。
という実感が一番湧いた瞬間だった。
日本人の僕からしたら半分壊れているような家たち、
全てがどこか土で茶色く、
家の前でご飯の支度をし、
窓ガラスのない無数の窓たち。
アジアとは違った。
まるで違った。
インド、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナム、そして大好きなカンボジア。
生活のレベルが圧倒的に違いすぎた。
これはアジアじゃない、
支援すべきはアジアじゃない…静かな衝撃がアフリカ到着1時間の僕を襲っていた。
(正直今こう5日間過ごしてみて、余り支援の必要性は感じない。まだこれからNGOの現場に連れていってもらうので言い切れはしないが。またアジアよりも圧倒的に国際機関、NGO関連者が少ないと感じる。)
カオスフェリー
普通の乗用車に後ろ5人、前3人計8人は乗っていた乗合タクシーをにてフェリー乗り場へ到着、
一番安い3000Leonの2等席を買う。
最初みた瞬間、これがフェリーか…?というレベルでブッ壊れていた。
更に錆だらけだ。
2等席で待つこと1時間、
いつの間にか地元の人で満員のフェリーは
宣教師やら実演型CD販売でカオスだった。
下には車からその日の大量の商売道具を抱えた婦人に子どもたち。
大学生らしき子たちの姿もチラホラ。
外人は僕合わせ4人。モロッコから来たNGO関係者のようだった。
ここから50分弱の船旅。
小高い山々と同時に首都フリータウンが見えてきた。
純粋にキレイな景観。
緩やかな山に家々が順々に並んでいて隙間には緑が溢れていた。