言葉のごとく、知識人は馬鹿になれない、
一市民には馬鹿になる自由がある。
知識人が言えないことを、自由に言える。
たとえば、国家のない世界は個人の主観において成立する・・・
国家とその国の文化を接着剤で固定、強固にすることが富国強兵、
それが国民国家であったが、国民国家が終焉を迎えていることは、
多くの知識人が一致する。
反対に、国民国家をこれからも強固に、
これも馬鹿な人間の考えだが、間違えということで論外となる。
さて、
知識人の創造力の無さが露呈、馬鹿な市民と対立するのはここからだ。
限界のない馬鹿、限界をつくる知識人、リベラルな思想の限界、
つまらなさはこの辺にありそうだ。
最近のYouTubeで参考になったのは、
一月万冊で、ジャーナリスト今井一さん・元博報堂作家本間龍さんの対話、
市民政治ということを考えなくてはいけないのではないか、
政治と経済研究所 THE議論ネットで、浜矩子さん、
国家と市民社会の対比に言及、
聞いていてハッとするが、問題はユートピアへの視座だ。
宇宙からの帰還、田中角栄研究、日本共産党の研究、
どれも読んでないのだが、馬鹿な一市民なので許してもらい、
国家が戦争を起こす、戦争を無くすには国家を無くさなくてはならない、
故立花隆さんのテレビでのコメントは明快、
しかし、それ以上の発言を聞くことができなかった。
リベラルな思想の限界には文化の源流を辿ることの軽視もあるのではないか。
日本なら、国家権力とは切り離した霊統、神道の行法も原動力になるだろう。
祝詞奏上、鎮魂帰神、そうして3つの視座、
国家を無くす方向性、市民社会成長の方向性、
文化の源流への方向性、その合流点で起きる化学反応、
未だ見切った人がいないのは、みな馬鹿になり切れないからだ。
我こそはである。