年末だったか、ルーテル教会の聖書日課で
「私こそ正しい、の危険」
というタイトルで、牧師さんがこんなことを書いていました。
一部、引用します。
「自分たちこそ、神のご意志を行なっている」と思い込んでいるパリサイ派の罪を、イエスが指摘した点を引き合いに出して
「私たちにとって大切なことは、『自分には見えない、知らないことがある』と、謙虚に受け止めることです」
「私たちには、分からないことが多くあり、それが聖書のみことばや神さまについてならば、なおさらのことです」
「教会の中で、『私こそ分かっている』『私こそ正しい』という声は、とても危険です」
「静かに祈りつつ、みことばを聴き、私はいかに立てばよいのか、神さまの導きを求めたいものです」
20数年前、伝道で訪問したお宅で、応対されたご主人が
「あなた方は、独特の聖書を使っている、と聞いたことがあるんですけど・・・」
と言われました。
わたしは
「そうですね。そういうご意見はよくお聞きします。
しかし、私たちが使っている聖書は、原語に最も忠実な翻訳もので、信頼できるものなんです」
と自信を持って答えました。
そんな場面を思い出し
20過ぎたばかりの若造が
自分で綿密な調査をしたわけでなく
組織の受け売りで
「これが正しい聖書である」
と断言する。
この例に限らず
「自分は真理を知っている」
と思い込んで証言していた過去。
あぁ、赤面、汗顔。
さて、ものみの塔教団の教え。
紙幣だったか宝石だったかの例えで、かつて、こんなこと書いてましたよね。
偽物と本物を見分けるために、いちいち偽物を研究しなくてよい。
偽物を見分けるには、本物だけを研究すればよい。
同じように、真の宗教を学べば、偽物は見分けられる。
実際の紙幣とか宝石とか骨董品ならば、その方法もありかもしれんけど、
形のあるモノではなく宗教なんだから、当てはめるわけにいかんだろ。
しかも、エホバの証人だけが真の宗教と断定したうえでの話だし。
これで納得する人、いるの?
マジメJWだった当時でも、ちょっと疑問に感じました。
年齢や経験をどれほど重ねても
知らないこと、分からないことのほうが圧倒的に多いはず。
にもかかわらず
狭い組織でしか育っていない子どもや若者が「将来の確かな希望を伝える」とか
組織の文書しか勉強してないのに研究生に「聖書を教える」とか
巡回や長老が世間知らず聖書知らずの分際で「会衆を牧する」とか
甚だしい勘違いと思い上がりが引き起こす悲喜劇。
自分の過去を棚に上げて、何ですが。
「分からない」「知らない」
ということを認める謙虚さ。
これができないのが、JW組織の醜態がこれほど露わになった要因の一つでしょう。
惨めですね。
かく言うわたしも謙虚に生きて行かねば。
と言っても、組織の批判は止めませんけど。