「私は聖書を読むようになって、これはこうするべきだ、あれはああするべきだという自分を縛る思いからずいぶん自由にされました」
こう書いているのはエホバの証人ではなく、牧師さんです。
いつだったかのルーテル教会の聖書日課は、そんな言葉で始まっていました。
長くJWをやっていると、聖書の存在も霞んでしまうのですが。
その日の聖句はコリント第一10:25~。
少し抜き出すと
「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです」
「しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また良心のために食べてはいけません」
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」
牧師さんの注解の要旨は、つぎの2点。
「地とそこに満ちているものは、主のもの」
という言葉は、律法の条文にこだわりすぎないようにとの、神の愛が込められている。
同時に、他の人へ配慮する生き方も勧めている。
そうか~。
「こだわり」からの解放と、他者への配慮。
このバランスなのか。
聖書を読むようになって自由にされました、と思えるのは、そういうことか。
JW歴40年余でしっくりこなかった部分が
かんたんに納得できてしまいました。
「他の人の良心」を気にかけるのは、たいせつでしょう。
しかし、ものみの塔はその部分をやたらクローズアップしますからね。
そんな偏った教えに長年さらされたら、委縮した生き方になるのも無理はない。
ものみの塔によく見られる記述のしかたとして
「各自の良心で決定すること」
と言いながら
なぜか具体例を挙げて
「これは他の人をつまづかせることにならないでしょうか」
みたいな書き方をして
「これは、やってはいけないことなのだ」
と思考を誘導する。
これじゃ、良心も何も関係ないだろう。
むしろ、組織へ服従する態度を形づくるために、他者への配慮という徳を利用してるんですよ。