JW2世のおっさんだけど、青春はこれからだ -63ページ目

JW2世のおっさんだけど、青春はこれからだ

エホバ? あぁ、出来損ないの偶像ですね。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

 

マルコ12:17(新共同訳)に記録されているイエスの言葉。

 

こんなセリフを静かに、かつ、堂々と発してみたいものです。

凡人には無理ですが。

 

ひと月ほど前のルーテルの聖書日課は、この言葉がポイントでした。

 

 

ものみの塔の見方。

2011年9月1日号より。

 

イエスは,神がそれらの政府にごく限られた権威しか与えておられないことを教えました。当時支配していたローマ政府に税を払うのが神から見て正しいことかどうかを尋ねられた時には,「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」という意味深い言葉を述べています。―マルコ 12:13‐17。
 

「カエサル」と呼ばれている政府は,貨幣を鋳造し,あるいは紙幣を印刷して,その価値を定めるのに一役買っています。ですから,神の目から見て,政府には,その費用を税金という形で払うよう求める権利があります。

 

とはいえイエスによれば,いかなる人間の機関も「神のもの」― 人の命や崇拝 ― を要求することはできません。人間の法律や要求が神の律法に抵触する場合,クリスチャンは「自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。―使徒 5:29。

 

 

この塔記事は

 

「税金-納めなければなりませんか」

 

というタイトルです。

 

だったら

 

「税金は誠実に払わねばなりません」

 

というふうな結論で済ましゃいいんですよ。

 

にもかかわらず、政府には税金という形で払うよう求める権利がある、などと回りくどい書き方をし、さらには別の聖句も引っ張り出してきて「人間より神に」をことさらに強調する。

 

 

まともな神になら従ってもいいけど、ものみの塔が造り上げたエホバとかいう偶像ときたら。

 

 

教理の恣意的な変更を、「漸進的」に明らかにされたと寝言をほざいたり

 

予告した終わりが来なくても、見張っている態度の何が悪い、と逆ギレしたり

 

何かにつけて自画自賛する一方、都合の悪いネタは一切封印する隠蔽体質だし

 

多くの人の労働の成果や公的機関の恩恵を受けていながら、非JWは皆サタンの側、滅びて然るべし、との教理は極めて悪魔的であるし

 

 

ほかにもいろいろありますが、多すぎて挙げ切れないし、書いていて腹が立ってきたのでこれくらいにしますけど、こうやってみると、人間の悪い面をあれこれ寄せ集めたような神ですよ。

 

こんなやつに従えって、無理でしょ。

 

何で、わざわざ嫌われるような人格に仕立てたのかね?

 

 

と言いつつ

 

そんな出来損ないの偶像に、自分も従っていたという事実。

 

今なお、多くの人が崇拝しているという現実。

 

 

今回の聖句、新世界訳だと

「カエサルのものはカエサルに、しかし神のものは神に返しなさい」

 

 

リビングバイブルも「しかし」有り。

 

新共同訳や口語訳は「しかし」無し。

 

新改訳は「そして」という表現。

 

 

このうちのどれが原文にいちばん近いのかは知りませんけど、「しかし」が入ると、「神のものは神に」が強調されます。

 

「しかし」の力が大きいのかどうか。

 

この聖句を根拠として

 

納得できようができまいが、あれもこれも「神」の教えであり、取り決めである。人間より神に従え。

 

と、あの環境下で繰り返し教育していけば、マインドコントロールの効果は十分あるでしょうね。

 

 

 

いっぽう、牧師さんの注解。

 

「皇帝のものは皇帝に」と「神のものは神に」とでは、どちらに比重が置かれているのでしょうか。

 

と問いかけ。

 

 

「神のものは神に」を強調したいからって、わざわざそんなこと言わなくても

と思いかけましたが

 

 

皇帝に税を納めるべきことが暗示されつつ、神のことを忘れてはいないかと諭され、日常生活の中に神という視点を持つことが推奨されます。

 

という意味のことを述べて

 

 

皇帝に属する事柄も神に属する事柄も、両方大事で、そうやって毎日の生活は成り立っているのです。

 

と結論。

 

 

何だかおおざっぱというか、どうかすると、楽なほうに流れてOK!

と受け取られかねない注解ですが

 

 

何が何でも神!

 

ではなく

 

日常生活の中に神という視点。

 

 

これは、キリストの犠牲や日々の恵みに感謝したり、親切であるよう努めたり、邪心にブレーキをかけたり、というくらいの意味でしょうか。

 

狂信的排他的非社会的な信者を生み出す宗教に属した経験からすると、これが現実的で自然な解釈だと納得します。

 

信仰心というのは、これくらいが適度なんでしょうね。

 

社会性、他者への配慮、適度な自尊心。

 

これらのバランスが取れてこそ、信仰も価値があるんじゃないかと思います。