先日の日曜、久々に教会に行きました。
自宅から車で15分ほどのところにあるルーテル教会です。
会衆の区域を少しだけ出た場所ですが、だれかに見られたらどうしよ(・・;)
なんてことは、少しも思わなくなりました。
この日は系列の高校の女子生徒が2人、わたしの前の席に座りました。
親と一緒かと思ったら子どもたちだけで来ていたので、あとで話しかけようと思ったけど(純粋な動機ですよw)、礼拝が終わったらすぐ帰ってしまいました。
それはともかく、単にエホバの証人の集会に行かないだけでなく、
「大いなるバビロン」と交わるなんて
ス・テ・キ♪
いや、まじめな話、1時間ちょっとの時間を教会で過ごすと、毎度、心が安らぎます。
聖書を深く学ぶわけではないし、礼拝は形式的ですけど、
普段着で、自然体で臨めるところがいいのでしょう。
JWのラブシャワーのような、腹黒い歓迎を浴びないのも清潔です。
今回の聖書の朗読に、マタイ13:44-52も含まれていました。
そのなかの49-50節。
引き網に関するたとえのあと、
「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをよりわけ、燃え盛る炉の中に投げ込むのである」
正しい人々の中から、悪い者どもをよりわける。
もし、救われる人間がわずかだとすると
「悪い者どもの中にいる正しい人々をよりわける」
というふうな表現になるはずなので、この聖句からすると、救われるほうが多くて、滅びるほうが少ないように思えますね。
この部分、これまで何となく読み飛ばしていたな、と思いました。
でも、狭い門を通って入りなさい、などという言葉もある。
結局、救われるとか滅びるとか
どの解釈が正しいんかいな
と考えてしまうと、ワケが分からなくなります。
だから、そんなこと考えなくていいんですよね。
だいたい、救いとか滅びとか、そんな視点で生活することが愚かです。
利己的になったり、他の人を裁いたりする原因の一つになります。
JWもそうであるように。
人様に迷惑をかけず、かつ、できるだけ親切にし、生きていることに感謝し、まじめに働き、楽しむときには楽しむ。
これが当たり前の人生訓なのでしょう。
そのうえで、神仏やキリストを信じたい人は信じればいい。
JWも「救いか滅びか」なんて妙なフィルターを教義から除去すると、もう少しマシになりそうですけどね。
今さら手遅れですが。