クワメ・アンソニー・アッピア『コスモポリタニズム』(2022)を読んで
今回は、クワメ・アンソニー・アッピア氏の『コスモポリタニズム』を読んだ感想を述べていく。彼は、ガーナ人の父とイギリス人の母を持つ人物であり、異文化同士の寛容さを求める「コスモポリタニズム」に行きつくのは必然だったのかもしれない。 ちなみに、皆さん「コスモポリタニズム」という用語を知っているだろうか。今風のカタカナ用語に聞こえるかもしれないが、実はその起源は古く、古代ギリシャの時代までさかのぼる。当時、ギリシャには都市国家(ポリス)がそれぞれ独立したものとして存在していたが、その枠に囚われない生き方を模索する考えが生まれた。それがコスモポリタニズム(世界市民主義)である。しかし、歴史を見れば承知の通り、世界国家や世界政府のようなものを人類史上達成したことはない。それは、ウェストファリア条約(1648)以降続く、主権国家体制の中では当然達成できない偉業であることは想像に難くない。しかし、国家の枠(あるいは民族・国民アイデンティティ)を超えて人々がともに生きていくという考えは、差別や分断が人々の間を駆け巡り、人類の不和を招いているという現状を見ればこうした考えは非常に魅力的であると言えます。 では、この考えが理想的であり、この考えを全人類が持つことで、ユートピアを創り出すことが出来るのであろうか。今までの人類史を見ればそれは難しいことであると言わざるを得ないだろう。そのことについては彼も著書の中で触れており、楽観主義や理想主義者とレッテルを貼るべきではない。そうした問題を抱えつつも、「コスモポリタニズム」のもつ利点・精神の大切さを説き、それをもって現代の人々の間の軋轢を軽減することが彼の目下の目標ではないかと感じた。 私たちと「性質」の異なる「他者」と興隆することはそんなに難しいことなのだろうか。はっきり言って、小学校を経験するだけでも「同じ」と思っている人々でさえ、自分とは異なっていることに気づくだろう。それなのに、文化や考えが違うだけでなぜそこまで排斥しようとするのか。むかつくこともあるだろうし、受け入れられないこともあるだろう。しかし、なぜ自分は受け入れられているという前提なのか。自分は、人から認めて「もらっている」ということを忘れるなかれ、認めてもらっている以上、他者のことも認めなければつり合いが取れないし、道理が通らない。寛容であることを押し付けるつもりはない、寛容であることを目指すのに寛容でないことを非難するのだから。しかし、少なくとも排斥はしないようにすべきであろう。これくらいは要求されてしかるべきだヴォルテールの言葉を借りれば、人々が忌み嫌いあうよりかははるかにマシなのである。